大友氏館(おおともし)
 別称  : 大友館
 分類  : 平山城
 築城者: 大友氏
 遺構  : 土塁
 交通  : JR久大本線古国府駅徒歩15分


       <沿革>
           これまで、大友氏累代の居館は上原館とされてきたが、近年上原館北麓の顕徳町一帯から
          中世の大規模な館遺構が発掘され、今日ではこちらが大友氏後期の居館として有力視されて
          いる。上原館との関係については、今後の研究に委ねられている。
           大友氏館がいつごろ築かれたのかは定かでない。一般に、「大友館」は鎌倉時代末期から
          南北朝時代初期にかけて、大友氏泰によって築かれたと伝えられている。また、大友氏館跡
          の南東から発見された大友氏菩提寺の萬寿寺跡は、徳治元年(1306)に氏泰の祖父貞親が、
          建立ないし改修したものと伝えられる。館の南東部から、京都の花の御所を模したとみられる
          池泉庭園跡が検出されていることから、遅くとも室町時代中期ごろまでには移転していたもの
          と推測されている。したがって、上原館で起きたとされてきた天文十九年(1550)の二階崩れ
          の変も、大友氏館を舞台としたものである可能性が高いとみられている。
           『当家年中作法日記』によれば、大友宗麟の子義統(吉統)のころ、毎年一月二十九日には
          「大おもて節」と呼ばれる新年の儀式が行われていた。この儀式では、「大おもて」と呼ばれる
          施設で200人以上もの家臣が饗応を受けたとされ、それに見合った規模の建物跡が大友氏館
          から見つかっている。
           文禄二年(1593)、吉統が文禄の役での失態を理由に改易されると、早川長政が豊後国内
          の太閤蔵入地の代官として府内に入った。長政は大友氏館を継続使用したと推測されている
          が、慶長二年(1597)に慶長の役での落ち度を理由に改易となった。代わって府内を領した
          福原長堯(直高)は、新たに府内城を築いて移り、大友氏館は廃城となった。

          
       <手記>
           大友氏館は、現在の顕徳町3丁目南東部一帯から発見されました。上原館に比べて規模も
          大きく、立地的にも今川氏の駿府館や土岐氏の川手城などの守護大名の居城とよく似ている
          といえます。
           もともとは住宅地だったようですが、国史跡に指定されたこともあり、公有地化が進み、今の
          ところ、更地となっています。ゆくゆくは史跡公園化されるのでしょうが、一度は九州の覇者と
          なった大友氏の居館址ということで、しっかりと発掘調査を行っていただきたいと思います。
           なお、上の地図で大友氏遺跡とされているのは、むしろ萬寿寺跡に近いところで、その南の
          帆足病院付近が寺の中心と推定されています。

           
 大友氏館跡現況。
 右奥の線路際あたりが池泉庭園跡。
館跡の仮設説明版。 


BACK