請戸城(うけど)
 別称  : 請戸館、大平山館
 分類  : 平山城
 築城者: 標葉隆義
 遺構  : 不詳
 交通  : 常磐自動車道浪江ICより車で15分


       <沿革>
           海道平氏の平成衡の四男隆義は、標葉郡を分け与えられて標葉氏を称し、保元年間
          (1156〜59)に請戸に居館を築いた。建武三/延元元年(1336)、南朝方に属した標葉
          持隆の請戸城は、北朝方の相馬光胤らに攻められた。
           持隆の孫の清隆は、嘉吉年間(1441〜44)に本城館を築いて居を移した。明応元年
          (1492)、標葉氏は相馬氏に攻められ権現堂城に滅んだが、請戸城で戦闘があったか
          は詳らかでない。その後の請戸城についても不明である。


       <手記>
           請戸城は、請戸川および高瀬川の河口に向かって細く突き出た峰先にあったとされて
          います。比定地の丘は大部分が削られ、主に東日本大震災で亡くなった方々のための
          町営大平山霊園となっています。とはいえ、今昔マップによると墓苑のために開発した
          わけではなく、戦後に均されて畑地になっていたようです。
           江戸時代には、すでに「跡地不分明」となっていたということで、遺構の有無は明らか
          ではありません。清隆の移城から標葉氏の滅亡までに廃城となったとすれば、山上の
          城砦もさほどの造作が成されていたとは思えず、不分明というのもさもありなんといった
          感じです。
           削り残された山の後背部分まで登れば、もしかしたら何かしらの痕跡が見つかるかも
          しれません。ですが、霊園には正装で墓参に訪れている方々が少なからずおり、その
          後ろでガサゴソと藪に分け入っていくのも気が引けたので、断念しました。
           霊園の眼前には、一面の更地が広がります。かつては海辺沿いに港町が栄え、それ
          以外の平地は豊かな水田地帯だったそうです。震災はもちろん、それ以上に原発事故
          により、今なお請戸は長期にわたり居住ができない「帰還困難区域」となっています。
          城跡へ行ったら、ぜひ港町の跡に建つ請戸小学校も訪れてみてください。津波で破壊
          された小学校の建物を保存・公開している震災遺構施設で、津波の威力のすさまじさを
          実感できるだけでなく、原発被災地が直面する深刻かつ複雑な問題について知ること
          ができます。

           
 東から請戸城跡を望む。
請戸城跡の町営大平山霊園。 
 霊園からの風景。
 かつては奥に港町が、
 手前側には水田が広がっていました。


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