権現堂城(ごんげんどう)
 別称  : 権現堂館
 分類  : 平山城
 築城者: 標葉清隆
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR常磐線浪江駅徒歩20分


       <沿革>
           請戸城を拠点に標葉郡を領していた標葉清隆は、嘉吉年間(1441〜44)に本城館
          を築いて居を移した。しかし、防備の面で不安があったため、文安年間(1444〜49)
          ごろに、さらに権現堂城を築いて居城とした。城内に、標葉氏の守護神である出羽
          権現を祀ったのが城名の由来とされる。
           明応元年(1492)、北の相馬盛胤が攻め込んでくると、一門筆頭格で泉田城主
          泉田隆直が相馬氏に内応した。これによって権現堂城が攻撃に晒され、清隆・隆成
          父子は城を枕に自刃して標葉氏は滅んだ。
           権現堂城は相馬氏一門の岡田義胤に預けられた。岡田氏の家督と岡田館は義胤
          の茂胤が継ぎ、権現堂城主は茂胤の弟胤連の系統が継承した。その後も相馬氏の
          重要な支城として機能したと考えられるが、廃城時期は詳らかでない。


       <手記>
           権現堂城は、請戸川とその支脈の合流点に突き出た舌状の峰に築かれた城です。
          上の地図にあるように、付け根南辺の台地縁か東麓から道が通じているようですが、
          私が訪ねたときにはどちらも猛烈な藪に阻まれて近づくこともままなりませんでした。
          とくに西側の西台地区は、多くの住民が原発事故からの帰還を諦めているようで、
          家屋を解体した更地と獣除けの鉄柵が続くもの悲しい景色となっていました。当然
          ながら、これでは城跡の手入れなんぞにかかずらわっていられるわけもありません。
          一方の東麓からの道ですが、こちらは完全に冬枯れすれば、斜面に取りつくくらい
          までは行けそうです。ただ、峰上の城域まで登れる保証はありませんが。
           資料を見ると、権現堂城は2条の堀切でバッチリ断ち切って城域を成しているよう
          です。となると、少なくとも戦国時代中期ぐらいまでは、改修されつつ使用されていた
          ものと推察されます。とすれば、城主は相馬一門として厚遇された泉田氏ではないか
          とも考えられますが、このあたりは推論の域を出ません。

           
 権現堂城跡を望む。
北西台地縁からのルート現況。 
 東麓からのルート現況。


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