海尻城(うみじり)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 井出長門守か
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR小海線海尻駅徒歩10分


       <沿革>
          『南佐久郡誌』に「往昔前山城主伴野の幕下井出長門守の築きしものなり」とあるが、
         井出氏の出自や詳しい築城年代は定かでない。天文九年(1540)、甲斐の武田信虎が
         重臣板垣信方に佐久郡へ侵攻させ、海尻城は同年正月十六日に信方の知略によって
         落とされたとされる。ただし、信虎の佐久進出は大井氏と争っていた伴野氏を支援する
         形で行われたとされ、伴野氏家臣の井出氏が守っていたのであれば、海尻城を武田氏
         が攻める必要はないはずである。あるいは、当時の海尻城が大井氏に奪われていた
         とも考えられるが、詳細は不明である。いずれにせよ、海尻城の守将には武田氏家臣
         小山田昌行(昌成)ないしその父昌辰(虎満)が入れられたとされる。
          同年十二月、周辺の地侍が村上氏の援軍を受けて海尻城を攻撃した。村上氏家老
         楽巌寺(室賀)光氏らが二の丸まで陥れたものの、小山田氏は本丸を死守し、甲州から
         の後詰の到着まで持ち堪えた(海尻城の合戦)。
          これ以降の海尻城の動向は明らかでない。昌辰は、天文十五年(1546)に内山城代
         となっている。


       <手記>
          海尻城は三方を千曲川とその支脈に囲まれた細い峰先にあります。東麓には海尻の
         宿場町が延び、北麓には館跡と思われる医王院があります。城山へは医王院山門の
         脇から登ることができます。
          山頂の削平地は細長く2段になっており、一般にはこれを本丸と二の丸としています。
         ただ、その境は緩やかな段差ではっきりしていません。この上段だけで持ち堪えるの
         は、直感的にはかなり困難と思います。本丸だけで耐えたというのはさすがに誇張で、
         落城しかねない危機的状況だったという程度に割り引いて考えるべきなのかな、とも
         感じました。
          本丸頂部には石碑、そして二の丸の先端に城址標柱と説明板、四阿があります。
         また、二の丸東端下には小さな腰曲輪が付随しています。そこから少し下って鞍部を
         渡った先には、城内で最も先端に位置する独立した曲輪があります。あるいはもう1つ
         の解釈として、この東端の曲輪を二の丸とすれば、独立した本丸だけで防戦すること
         も、可能と思われます。
          反対に、本丸の背後には大きな堀切が穿たれ、その西には日向山という小ピークが
         あります。ここも城域に含める見方もあるようですが、山頂のスペースは小さく、とくに
         曲輪形成されているようすもありません。
          規模としては、同じく甲斐に対する境目の城とみられる海ノ口城と同程度で、武田氏
         の支配が確立されて以降は、さほど重要視されていなかったものと推測されます。

          
 本丸の城址碑。。
 
二の丸から本丸(奥の石碑)を望む。 
 二の丸の城址標柱と四阿。
二の丸東端下の腰曲輪。 
 三の丸を望む。
 画面中央は堀切跡か。
本丸背後の堀切。 
 日向山を見上げる。
日向山山頂のようす。 
 登山口の医王院山門前。


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