内山城(うちやま) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大井玄岑か | |
遺構 : 曲輪、石塁、土塁、堀 | |
交通 : JR小海線中込駅徒歩40分 | |
<沿革> 永正年間(1504〜21)に、大井美作入道玄岑によって築かれたといわれる。玄岑の跡は 子の小次郎隆景が継いだとされるが、両者の大井氏の系譜における位置については定か でない。 大井宗家(岩村田大井氏)を継いだ長窪城主大井貞隆が、天文十二年(1543)に武田 晴信(信玄)に攻められて捕えられると、貞隆の弟の貞清が岩村田大井氏を継ぎ、内山城 で抵抗を続けた。岩村田大井氏の貞清は玄岑・隆景父子の後裔ではないと思われるが、 内山城を拠点と定めるに至った経緯については不明である。 天文十五年(1546)、武田氏は再び佐久へ侵攻し、内山城を攻略した。貞清は城を明け 渡し、のちに晴信に臣従した。内山城主には、一時的にそのまま貞清が入れられたが、 まもなく上原伊賀守が任じられた。伊賀守は一般に小山田備中守昌辰の名で知られて いるが、一次史料上の諱は「虎満」とされる。 天文十七年(1548)、上田原の戦いで晴信が村上義清に大敗すると、義清は佐久へ侵攻 し内山城も攻勢に晒された。しかし、伊賀守はこれをよく防ぎ、晴信が再度佐久へ後詰に 出陣したことにより、撃退に成功した。また、時期は定かでないが上野国の上杉憲政の 軍にも攻められ、やはり防ぎ切ったとされる。 『高白斎記』によれば、天文二十年(1551)に再び貞清が内山城代となったとされる。 しかし、再び伊賀守に交代し、このときに伊賀守は小山田備中守を称するようになったと いわれる。 備中守虎満の跡は、子の備中守昌成が継いだ。天正十年(1582)に織田信長が武田 攻めを敢行すると、昌成は高遠城の戦いで討ち死にした。まもなく武田氏は滅亡し、内山 城も織田氏に降ったものとみられる。 同年に本能寺の変が起きると、甲信州では天正壬午の乱が勃発した。翌天正十一年 (1583)、徳川方の依田信蕃が内山城を攻略し、城将で昌成の子の六左衛門尉昌盛は 関東へ落ち延びたとされる。 <手記> 内山城は、滑津川に臨む形の良い峻険な山上にあり、対岸の平賀城と向かい合って います。城へ登るには、まず麓の園城寺を目指すとよいでしょう。実際の登城口は、そこ から右手にスライドした衣笠神社の脇にあります。園城寺境内も館地形として十分です が、神社境内やその周辺にも削平地様の区画が点在していて、居館部がどこにあった のか定かではありません。おそらく、比較的大きな根古屋を形成していたのでしょう。 登山道はところどころ藪に近くなっていますが、きちんと上まで通じています。主城域 に至る前に数段の腰曲輪があり、一部は石塁が残っています。そこから主城域の方を 見上げると、岩塊が競技場の観客席のように林立していて、かなりの圧迫感です。 主城域は、山頂の本丸の北と南にそれぞれ2段の腰曲輪が付属する縄張りになって います。一般的に北側の腰曲輪を二の丸・三の丸と呼びならわしているようで、面積も こちらの方が広くなっています。主郭下など主城域にも部分的に石塁が残されており、 石材には事欠かなかったでしょうから、かつてはかなりの範囲に石塁が使われていた ものと推測されます。 周囲の尾根筋には堀切などもあるようですが、青葉茂りはじめる時期でちょっと断念 しました。立派な山城なので、やはり涼しい季節に訪ねるのがおすすめです。 |
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内山城跡遠望。 | |
主城域下方の尾根筋の腰曲輪。 | |
同じく腰曲輪の石塁。 | |
同じく腰曲輪のようす。 | |
腰曲輪群から主城域方面を見上げる。 | |
二の丸下の腰曲輪。 | |
三の丸。 | |
二の丸。 | |
二の丸と本丸の切岸。 | |
本丸の城址標柱。 | |
本丸の小祠。 | |
本丸下の石塁。 | |
本丸南側の腰曲輪。 | |
腰曲輪下段の先端。 | |
登城口の衣笠神社付近のようす。 削平地は居館ないし根古屋跡か。 |
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同じく神社近辺の削平地。 |