雲霧城(うんむ)
 別称  : 保源城、金波館
 分類  : 山城
 築城者: 川尻光頼か
 遺構  : 曲輪、切岸
 交通  : JR水郡線川辺沖駅徒歩20分


       <沿革>
           石川(源)有光の四男ないし有光の長子光祐の子とされる川尻四郎光頼によって、天永二年
          (1111)に築かれたとされる。他方で、応徳三年(1086)に没した有光の隠居城として築かれた
          とする伝承もあり、雲霧城の成り立ちについては定かでない。保源城とはこの有光の城を指す
          が、南東1.5kmほどの藤田城のこととする説も有力視されている。
           応永十四年(1407)、川尻氏は小平(現・平田村)へ所領替えとなり、代わって三沢城の板橋
          満好が雲霧城主となった。天正十八年(1590)、奥州仕置によって石川昭光が除封され、甥の
          伊達政宗の家臣となると、板橋氏もこの地を去ったとされる。雲霧城もこのときに廃されたもの
          とみられる。


       <手記>
           雲霧城に保源城、そして金波館と呼び名はなかなか凝っているものの、いずれも由来が定か
          でないのが少々喉にひっかかる城です。円通寺裏手の墓地奥から、いささか藪気味ではある
          ものの登城路が付いています。途中には寺の奥の院か何かがあったと思われる空間があり、
          脇には虎口跡のような地形もみられます。ただし、寺院の造作か城の遺構かは不明です。
           城は、丘の上の広々とした主郭とその下の帯曲輪を基調としています。主郭にも神社が祀ら
          れていたようですが、すっかり荒れ果てて枯竹林となってしまっています。帯曲輪までは下りて
          歩けますが、その先については藪がひどく状況は分かりません。
           とくに際立った造作は見られませんが、在地領主の居城としては充分な規模といえるでしょう。
          なにより、来歴が事実であれば実に500年近く現役だったことになり、その意味ではたいへん
          貴重な城館であるといえます。

           
 円通寺裏手の墓地付近からの眺望。
登城路を入ってまもなくの空間。 
寺院跡か。 
 その脇の虎口状地形。
 遺構か寺院の造作かは不明です。
同上。 
 登城路脇の土塁状地形。
主郭の切岸。 
 主郭のようす。
同上。 
 同上。神社跡か。
帯曲輪を見下ろす。 
 同上。
帯曲輪のようす。 


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