浦賀城(うらが) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 後北条氏か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、堀、井戸 | |
交通 : 京急本線浦賀駅徒歩15分 | |
<沿革> 『日本城郭大系』では、周辺の寺院の創立年代から、三浦道寸(義同)・義意父子の時代 の築城ではないかとしているが、あくまで推測の域を出ない。一般には、後北条氏によって 三崎城の支城として築かれたものと考えられている。大永六年(1526)、安房の里見実堯 (ないし実堯の甥で当主の義豊)が、海路三浦半島へ上陸し、鎌倉へと攻め上った。里見勢 は走水・浦賀・久里浜あたりのどこかに着岸したものと推測され、もしこのときすでに浦賀城 が存在していたとすれば、これを落とさずに鎌倉へ直行することは困難と思われる。里見軍 の進撃は玉縄城で食い止められたが、少なくとも浦賀城が本格的に整備されるのは、これ 以降のことと推測される。 その後、三浦半島は幾度となく後北条氏と里見氏の戦場となったが、浦賀城での攻防戦 については伝わっていない。 天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅亡すると、浦賀城も廃されたとみられて いる。ただし、同五年(1577)のいわゆる房相一和で両氏間に和議が成立した際に、条件 の1つとして浦賀城を含む三浦半島の諸城が廃されたとする説もある。 <手記> 浦賀城は、浦賀湾の入口東側に突き出た明神山にあったとされています。主郭とされる 山頂には、現在勝海舟断食の碑や山名の由来となった神明社などがあります。山頂へは、 南西麓の東叶神社背後から登ることができます。碑や社殿は、¬字型に一段高く並んで おり、土塁および櫓台跡と思われます。後世の改変もあるでしょうから、縄張りについては 少々不明瞭なところもありますが、主郭の東側には数段の腰曲輪が見受けられます。 明神山背後は、谷を利用した天然の堀切となっています。この堀底に、明確な井戸遺構 があります。谷を越えてひとつ北側の山へ登ると、今度は明らかに人の手によるとみられる 堀切が現れます。ここより北には、削平地は見受けられるものの、堀はないようです。おそ らく、兵の駐屯用のスペースであったものと推測されます。 明神山の西麓は、かつての港町の風景をよく残しており、また渡し船や桟橋もあって情緒 溢れる歴史的景観となっています。おそらく、後北条氏時代の軍港もこのあたりにおかれて いたであろうことは、容易に想像ができます。 ちなみに、明神山の南麓には、幕末に明神崎台場が建設されました。現在、こちらは道路 やヨットハーバー建設により、完全に遺構は消滅しています。 |
|
浦賀湾対岸から浦賀城址を望む。 右側のピークが主郭のある明神山。 |
|
主郭のようす。 |
|
神明社。土塁ないし櫓台跡か。 | |
明神山からの眺望。向こうに見えるのは房総半島。 | |
主郭東側の腰曲輪。 | |
同上。 | |
明神山北の谷の井戸跡。 | |
谷の北の堀切。 | |
明神山の北側の山の削平地。 |