勝連城(かつれん)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 勝連按司か
 遺構  : 石垣、水の手
 交通  : 那覇バスターミナルから路線バス与勝線(52番)、
       「勝連城跡前」バス停下車


       <沿革>
           14世紀初めごろに、琉球の英祖王統2代目の大成王の五男が初代勝連按司に
          封じられた。勝連城は、この勝連按司一世ないし父の大成王によって築かれたと
          考えられている。ただし、英祖の前の舜天王統時代にあたる12〜13世紀の築城と
          する見方もあり、定説をみていない。
           勝連按司二世の娘眞鍋樽は、貧家の出とされる察度の妻となった。察度はこの
          婚姻を機に家を興し、英祖王統5代目西威が死去すると、群臣に推されて王位を
          継いだ。勝連按司も察度の縁戚として厚遇されたと思われ、察度王統時代に今日
          の規模にまで拡張されたと考えられている。
           14世紀末ごろ、伊覇按司一世の六男が勝連按司五世を攻め滅ぼし、「勝連の
          伊覇按司」と呼ばれるようになったとされる。伊覇按司一世は英祖の次男を祖と
          する今帰仁城主今帰仁仲宗根若按司の八男で、父が傍流の羽地按司怕尼芝に
          敗れたことから、伊覇城に移っていた。勝連の伊覇按司の姉ないし妹には、後に
          琉球を統一する尚巴志の妻となった眞鍋金がいる。
           勝連の伊覇按司はその後、勝連按司五世の家臣であったとされる浜川按司に
          敗れて討ち死にした。浜川按司の出自については定かでない。浜川按司は2代
          続き、その跡を茂知附按司(もちづきあじ)が継いだ。茂知附按司の出自も詳らか
          でないが、「望月」の字を充てて和人とする説や、後世に組織化される神女(ノロ)
          に「もちづき」という名がみられることから、浜川按司二世の妻とする説がある。
           史書によれば、茂知附按司は酒に溺れて悪政を布き、家臣阿麻和利(あまわり)
          の謀反によって討たれたとされる。阿麻和利は北谷間切屋良村(現在の嘉手納町
          屋良)の百姓の子とも伝えられるが、諸説あり詳らかでない。ただ、どの言い伝え
          も勝連城主家の累代の家臣ではなく、茂知附按司に仕えて一代でのし上がった
          人物であるとする点では一致している。
           勝連按司となった阿麻和利は、交易を通じて勝連をさらに発展させた。第一尚氏
          6代琉球国王尚泰久は、娘の百度踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせて
          取り込みを図った。
           だが、1458年に「護佐丸・阿麻和利の乱」が発生し、阿麻和利は勝連城とともに
          滅びることとなった。その経緯は、1701年成立の史書『中山世譜』によれば以下の
          とおりである。阿麻和利は、中城按司の護佐丸盛春(ごさまるせいしゅん)が謀反
          を企んでいると尚泰久王に報じた。護佐丸は百度踏揚の祖父で、尚巴志王の琉球
          統一における随一の功臣であった。そのため尚泰久王はすぐには信じなかったが、
          実際に護佐丸が兵馬を募っていることを知り、阿麻和利に討伐を命じた。中城城
          囲まれた護佐丸は二心のないことを示すため、抵抗せず自刃して果てた。しかし、
          今度は阿麻和利自身がクーデターを図ったため、百度踏揚は従者の鬼大城(うに
          うふぐしく)に背負われて勝連城を脱出した。2人の報せを受けた尚泰久は鬼大城
          を大将とする討伐軍を勝連へ差し向け、阿麻和利を討ち果たしたとされる。
           史書によれば、鬼大城はこのとき堅固な勝連城を攻めあぐねたが、女装して城に
          潜入し、自ら阿麻和利を斬ったともいわれる。ただし、勝連城の遺構には大規模な
          戦いの痕跡は見られないとされる。また、16〜17世紀にかけて編纂された『おもろ
          さうし』には阿麻和利が英雄として讃えられていることなどから、乱の経緯には疑問
          が呈されている。
           乱後、鬼大城は越来間切の総地頭職に任じられて越来賢雄(ごえくけんゆう)と
          改名し、百度踏揚はその妻となっている。阿麻和利の滅亡により、勝連城は廃城と
          なった。
 

      <手記>
           勝連城は、沖縄本島の南東に突き出た与勝半島の付け根に位置しています。
          与勝半島自体が1つの海岸段丘でできている感じで、この一城で半島全体を掌握
          できたであろうと思われます。世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」に
          登録されている5城の1つで、座喜味城よりは大きく、中城城や今帰仁城より少し
          小さいくらいの規模です。
           世界遺産登録を機にかは分かりませんが、城跡は発掘調査や史跡整備が進め
          られているようです。無料駐車場やビジターセンターもあり、車さえあれば訪問は
          容易です。
           縄張り自体は頂上の主郭から一二三段に曲輪が続く単純なものですが、その
          石垣の立派さには目を見張ります。これが本当に15世紀に滅んだ城とするなら、
          その頃の本土の城館よりも進んだ技術で築かれていたといえるでしょう。
           主郭が御嶽(うたき)のある祭祀空間で、主殿が1段下の二の郭にあるのは、
          首里城や今帰仁城など琉球の城のトレンドのようです。その下段の三の郭は、
          虎口が食い違い状になっているなど最も堅固なつくりで、ここから上が主城域と
          みられます。三の郭の下には、峰の鞍部を石垣でぐるっと囲んだ広い四の郭が
          があり、ここが最外郭のようです。
           さて、勝連城は護佐丸・阿麻和利の乱の舞台となりましたが、経緯については
          諸説紛糾しているという状況のようです。とくに、『中山世譜』の護佐丸=忠臣・
          阿麻和利=叛臣という見方に対するアンチテーゼが中心にあります。その根拠の
          1つが上述の『おもろさうし』にある阿麻和利の英雄視とされていますが、個人的
          には、第一尚氏に滅ぼされた阿麻和利を、第二尚氏の治世下で編纂された同書
          がどう扱っているかはあまり証拠価値はないのではないかと考えます。もともと
          官僚として出世した第二尚氏の祖金丸は、さすがに阿麻和利の乱には関与して
          はいなかったのではないかと思われるのです。
           護佐丸と阿麻和利はともに琉球王に対抗しうる数少ない実力者ですから、彼ら
          を滅ぼして一番得をするのは尚氏に他なりません。結果的にみれば金丸が台頭
          して取って代わられたわけですが、当時の状況を考えれば、尚泰久王が2人を
          一挙に葬ろうとしたとするのが自然なように思います。それが初めから仕組まれ
          たものなのか、阿麻和利の野心を逆手に取ったものなのかはわかりませんが。
           
 駐車場脇の模型とその先の城跡。
四の郭の城址碑と三の郭の石垣。 
 同じく四の郭から三の郭を望む。
四の郭の外郭石垣。 
 四の郭の石垣を間近で。
四の郭の湧水「ウタミシガー」。 
 同じく「ミートゥガー」。
三の郭へ上る道。 
 三の郭から二の郭と主郭を望む。
二の郭の主殿跡。 
 主殿跡から二の郭を俯瞰。
二の郭から南西を望む。 
左手奥の稜線上に中城城があります。 
 一の郭へ上る道。
一の郭のようす。 
右手前の石段は「玉ノミウヂ御嶽」。 
 一の郭から東方を望む。
 中央奥の道は平安座島へ渡る海中道路。
同じく北西を望む。半島の付け根側。 
 同じく二の郭方面を俯瞰。


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