宇土城(うと) | |
別称 : 近世宇土城、小西城、鶴ノ城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小西行長 | |
遺構 : 曲輪跡、石垣、堀跡 | |
交通 : JR鹿児島本線宇土駅よりバス 「本町1丁目」バス停下車徒歩10分 |
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<沿革> 天正十六年(1588)、肥後国人一揆の責任を負って切腹した佐々成政の遺領は、北半分を 加藤清正が、南半分を小西行長が領することとなった。行長は、旧国人領主名和氏の居城 (中世)宇土城(宇土古城)の東隣の丘に新たな宇土城の築城を開始した。この普請に反発 して、天草郡の国人衆が反乱を起こしたが、翌十七年(1589)に鎮圧された。 宇土城がいつごろ完成したかは詳らかでないが、清正の熊本城の普請が慶長・文禄の役 の間は進展しなかったという類例を鑑みれば、役が終結した慶長三年(1598)から関ヶ原の 戦いの同五年(1600)の間と考えるのが妥当であると思われる。最盛期の宇土城は、運河 (船場川)を通じて総構の水濠と浜戸川、ひいては外海とつながっており、内陸にありながら 水城としての機能をもっていたといわれる。 行長は関ヶ原の戦いの本戦に参加し、宇土城は行長の弟行景や内藤如安が守っていた。 本戦後の九月十九日、加藤清正・有馬直純・大村喜前ら7400人が宇土に攻め寄せ、城下を 焼き払った。翌日から攻城が本格化したが、城兵はよく守り士気も衰えなかった。十月一日 には本戦で敗れた行長が斬首され、清正は城方にこれを伝えて開城を迫ったが、小西勢は 信じなかった。同二十日に至って、小西家臣が行長の最期を報らせたため、同二十三日に 開城した。行景は、城兵の助命を条件に切腹した。 小西領は清正に与えられ、清正は宇土城を自らの隠居城とするべく修築工事を行った。 発掘調査により、小西時代の本丸の上に1m以上の盛土をして、石垣を構築していたことが 明らかとなっている。 しかし、清正は隠居することなく慶長十六年(1611)に没し、宇土城は翌十七年(1612)に 幕命によって廃城とされた。寛永十四年(1637)に島原の乱が発生すると、幕府は一揆に よって城跡が再利用されることを恐れ、乱の鎮圧後に宇土城を含む九州の近世城郭跡の 徹底的な再破城を命じた。 <手記> 宇土城には、上述のとおり中世のものと行長が築いた近世城郭の2つがあります。新旧 2つの同名の城が存在する場合、一般的には古い方を「古城」として区別します。ですが、 宇土城のケースでは中世宇土城の方を「宇土城址」として国の史跡に指定されてしまって いるため、他の類例以上にややこしいことになっています。そもそも、(近世)宇土城がなぜ 史跡指定から漏れているのか不思議です。 宇土城の本丸は公園化されており、その一画には小西行長の像が建てられています。 前述のとおり、島原の乱に際して石垣や堀は著しく破壊されていますが、本丸と二の丸の 大枠は、今でも見てとることができます。本丸南西には、清正時代の石垣の一部が残って います。二の丸は墓地や住宅地となっていて、その外側にかつての濠跡が畑や生活道路 として見受けられます。この濠跡はかなり広大で、ここにかつては満々と水が張られていた とすれば、宇土城が水城の機能も有していたというのも納得がいきます。 城下には浜戸川の氾濫原が使い放題とでもいうように広がっており、行長の政略・軍略 両面での大きな構想を感じ取ることができます。 ちなみに、熊本城の第三の天守とも呼ばれる宇土櫓は、小西氏の宇土城天守を移した ものとも伝えられていますが、現在のところこれを立証する証拠は得られていません。 |
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本丸のようす。 | |
本丸の小西行長公像。 | |
本丸から墓地となっている二の丸を望む。 | |
本丸南西に残る清正時代の石垣。 | |
本丸の堀跡。 | |
二の丸の濠跡。 用水路から左手の二の丸岸壁まで。 |