熊本城(くまもと) | |
別称 : 銀杏城、隈本城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鹿子木親員 | |
遺構 : 櫓、門、石垣、堀 | |
交通 : 熊本市電「熊本城・市役所前」電停等下車 | |
<沿革> 熊本城のある茶臼山丘陵には、当初東端に菊池氏一族の出田氏が千葉城を構えていた。しかし、 15世紀末に同氏が衰退すると、菊池氏の命により鹿子木親員(寂心)が千葉城に入った。鹿子木氏 は中原師員を祖とするとされるが、師員の出自については諸説ありはっきりしない。ただし、師員が 大友氏の祖大友能直と同族であるという点では一致している。親員は明応五年(1496)に茶臼山の 南端に隈本城を築き、千葉城を廃して移ったとされる。 永正十七年(1520)、大友義鑑の弟義武が菊池氏を継ぎ、義武は隈本城を本拠としたと伝わる。 しかし、義武は天文三年(1534)に兄義鑑と対立して独立を図った。翌四年(1535)、義武は義鑑の 追討を受けて島原半島へ逃れた。寂心は隈本城主に留まったようで、同九年(1540)に義武が再起 を図って攻め寄せると、大友方として隈本城を死守した。 天文十九年(1550)の二階崩れの変で義鑑が横死すると、鹿子木氏は義武を隈本城に迎えた。 義鑑の子義鎮(宗麟)は、大友氏を継承すると肥後へ兵を向け、敗れた義武は再び島原へ奔った。 鹿子木氏も隈本城を逐われ、代わって菊池一族の城親冬が入った。 天正十五年(1587)、豊臣秀吉の九州平定に際し、親冬の孫久基は城を開いて降伏した。肥後は 佐々成政に与えられ、成政は改めて隈本城を居城と定めた。しかし、ふた月と経たずに国人一揆が 発生し(肥後国人一揆)、成政は居城の改修に手を付けるまもなく一揆の鎮圧に追われた。成政の 出陣中に、隈本城は一揆勢に攻めたてられたが、城代の神保氏張の活躍により、落城を免れたと 伝わる。 翌天正十六年(1588)に乱が終息すると、成政は切腹となり、熊本を含む肥後北半国は加藤清正 に与えられた。同十九年(1591)、清正はそれまでの隈本城や千葉城址を含む茶臼山丘陵全体を 城域とする巨城の築城を開始した。しかし、翌文禄元年(1592)より慶長・文禄の役が始まったため、 秀吉存命の間は築城工事はなかなか進まなかったといわれる。 慶長三年(1598)に秀吉が死去すると、清正はようやく本国へ帰ることができ、普請を加速させる ことができるようになった。他方で、役中に朝鮮半島で数々の倭城を築いた経験が、今日の圧倒的 な石の城を生み出すことを可能にした。関ヶ原の戦いを経た慶長十二年(1607)に城は完成し、この とき清正は肥後52万石余を領する大大名となっていた。落成を機に、「隈本」の字が現在の「熊本」 に改められた。 寛永九年(1632)、清正の子忠広の代に加藤家は改易となり、代わって細川忠利が豊前小倉より 熊本に移った。熊本入城に際して、忠利は西大手門の前で駕籠を降り、「謹んで肥後54万石を拝領 仕ります」と拝礼したと伝わる。以後、細川家が12代を数えて明治維新を迎えた。 明治十年(1877)の西南戦争において、熊本城は西郷隆盛率いる反政府軍の攻略目標となった。 当時、城内には鎮西鎮台が置かれていたが、主城域以外の建物はすでに撤去されていた。さらに、 城が包囲された二月十九日には、原因不明の出火により大小天守以下主城域の主要な建物の多く が焼失した。2日後の二十一日夜から総攻撃が行われたが、反政府軍は1万数千〜3万といわれる 兵数で包囲しながら、谷干城陸軍少将以下3千人ほどが籠もる城を攻め落とすことができなかった。 反政府軍はその後も攻囲を続けたが、田原坂の戦いなどを経て消耗し、四月十四日に囲みを解いて 官軍を迎え撃つべく南方へ退いた。この52日間の包囲戦によって、熊本城は名実ともに名城である ことが立証された。また、明治維新以降に実戦を経験した数少ない城の1つともなった。 <手記> 熊本城の建つ茶臼山丘陵には、上述の通りその前身となる隈本城と千葉城があり、これらを同一 としてみるか別個の城として扱うかは、資料によって異なっています。ここでは、江戸時代の熊本城 絵図には千葉城址が別個に描かれており、隈本城址が「古城」として取り込まれていることや、字の ごとく、隈本城と熊本城の間には佐々成政時代を介在して連続性があることから、隈本城と熊本城 を同じ項で扱うことにしました。 熊本城は日本三名城の1つに数えられ、天守や石垣の壮麗さは全国に知れ渡っています。天守は 残念ながら鉄筋コンクリートによる戦後の復興ですが、城内には宇土櫓以下それでも13棟の櫓や門 ・塀が残っています。現存する最大の建造物は天守の西に建つ三層五階の宇土櫓です。その規模 は平均的な近世城郭の大天守に価し、その名の通り小西氏の宇土城の天守を移築したものと伝え られてきました。最上階に廻縁を有する宇土櫓は、たしかに天守としての風格を十分もっていますが、 実際に宇土城にあったものかという点については、古くから疑問が呈されています。修理に伴う調査 も行われましたが、移築された痕跡もなければ移築でないという証拠もなく、宇土櫓の縁起について は今なお謎のままです。宇土櫓は内部が見学可能で上まで登ることができるので、復興天守内部 が普通のビルディングであることを考えれば、城内でもっとも見がいのある建物といえるでしょう。 その他の現存建造物は、城の東辺に集中しています。東竹の丸南東隅の田子櫓から、本丸北の 平櫓まで、各種多聞様の櫓が断続的に連なるさまは、なかなか残ってはいない近世城郭の周縁の 景色を偲ばせてくれます。また、竹の丸坪井川沿いには有名な長塀が残り、熊本城を代表する景観 の1つとなっています。 熊本城の特徴はの1つは、卓越した石垣技術にあり、加藤家による扇の勾配はつとに有名です。 竹の丸から、左右にせり出す高石垣越しに望む大天守は、やはり熊本城の代表的な撮影ポイントと なっています。ここから本丸に向かって直登する途中には、「二様の石垣」と呼ばれる、加藤家時代 と細川家時代の勾配の異なる2種類の石垣が一目に並んでいます。 さて、熊本城の南西には古城町と呼ばれる一角があり、ここが旧隈本城跡とされています。現在 は第一高校の敷地となっており、周囲の石垣と堀の跡にわずかながら遺構をとどめています。佐々 氏時代までの遺構は消滅しているでしょうが、舌状台地の先端を利用した城であったことは、地形 から類推することができます。高校の西側にある古城堀端公園には、後述する復興計画に伴って、 再び浚渫し直して旧観に近づける予定もあるようです。余談ですが、古城の最寄りの電停は「洗場 橋」で、駅前には狸の像があります。この洗場とは「船場」、つまりかつての河港で、「あんたがた どこさ 肥後さ」で始まるてまり歌の舞台といわれています。歌のなかでは「船場山」として歌われて いますが、これは古城一帯を指すようです(異説有)。これが本当だとすれば、時代とともに古城は 狸が出るほど寂れていったということになるでしょうか。 平成十九年(2007)の落成400年記念に前後して、本丸御殿や飯田丸五階櫓、大手門など、多く の櫓・門・塀などの木造復元事業が進められています。とくに本丸御殿の復元によって、天守に辿り 着くには御殿の下の薄暗い抜け道のような通路を通らなければならないという、熊本城の変わった 特徴の1つを体感することができるようになりました。事業が完遂されれば、おそらく熊本城は日本で 城内建築物総量のもっとも多い城となるように思います。しかし他方で、工事を急ぐあまり石垣など 既存の遺構が破壊される事例も報告されており、一刻も早い完成も求める経済や行政などの思惑 と史跡保存の観点がぶつかるお決まりの問題も起きているようです。 蛇足的な雑感ですが、私が訪れた時にはとにかく韓国人の観光客が多かったです。朝鮮出兵で 奮闘した加藤清正は韓国にとっては仇敵のような気もするのですが…。メディアが伝えるほど韓国 の反日感情は強くないということなのでしょうか。 ≪追記≫ 2016年の熊本地震の後、改めて熊本を訪れる機会がありました。天気はあいにく雨でしたが、 至るところで痛々しく石垣の崩れた城内を一周しました。北十八間櫓など貴重な現存櫓が石垣と ともに倒壊してしまったのはとにかく残念です。そんななかで、宇土櫓とその土台の石垣がしっかり 残っていたのは不幸中の大きな幸いでした。内側の栗石ごと崩れ落ちた石垣の修復には多大な 時間と費用と労力がかかることでしょう。城よりも生活の復興がまず第一ですが、熊本のシンボル である銀杏城の雄姿ができるだけ早期に復活することを願ってやみません。 |
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天守近望。 | |
宇土櫓近望。 | |
本丸御殿と本丸への地下通路入口。 | |
二様の石垣。 奥が細川時代、手前が加藤時代の石垣。 |
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飯田丸五階櫓(復元)。 | |
竹の丸からのおなじみのアングル。 | |
竹の丸長塀。 | |
長塀の東端にある平御櫓。 | |
左から十四間櫓、四間櫓、源之進櫓。 | |
東十八間櫓を南から望む。 | |
不開門。 | |
平櫓。 | |
南大手門(復元)。 | |
西大手門(復元)。 | |
未申櫓(復元)を望む。 | |
戌亥櫓(復元)を望む。 | |
古城の堀跡。 | |
古城の石垣。 | |
ここからは熊本地震後の写真です。 工事中の天守。 |
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長塀。 | |
馬具櫓。 | |
戌亥櫓。 | |
倒壊した北十八間櫓跡。 |