宇土古城(うとこ) | |
別称 : 宇土城、中世宇土城、名和城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 宇土氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土塁、虎口 | |
交通 : JR鹿児島本線宇土駅よりバス 「本町1丁目」バス停下車徒歩15分 |
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<沿革> 中世の豪族宇土氏の居城であるが、宇土古城および宇土氏の起源については詳らかでない。 城跡の麓の西岡神宮の縁起によれば、永承三年(1048)に築かれたとされる。このころ、菊池氏 の祖とされる藤原政則が肥後に住していたとされ、菊池氏一族が宇土氏を称して居館を構えた ものとも推測される。他方で、それ以前から紀姓宇土氏が存在したともいわれるが、詳細は不明 である。 宇土氏の動向が明らかとなるのは、南北朝時代の宇土壱岐守高俊からである。高俊について は菊池一族とされ、本家と同じく南朝を支持し、征西将軍宮懐良親王を自領の宇土津に迎えた。 弘和元/永徳元年(1381)に菊池武朝が今川了俊に敗れて隈府城を逐われると、後征西将軍宮 (良成親王)もまた宇土に逃れた。高俊は、九州における南朝勢力の中心人物となったが、他方 で同じ南朝方の勢力圏である郡浦荘の領地を押領し、自身の所領拡大にも努めていた。元中七 /明徳元年(1390)には宇土氏と河尻氏の城が了俊に攻め落とされており、この宇土氏の城とは 宇土古城を指すものと推測されている。 その後しばらく宇土氏の動向は途絶えるが、15世紀中ごろに、菊池持朝の子為光が宇土忠豊 の養子となって跡を継いでいる。為光は菊池宗家に取って代わる野心を隠さず、文明十六年(14 84)に相良為続と結んで甥の菊池重朝と戦ったが、敗れて八代の名和顕忠のもとへ逃亡した。 翌十七年(1485)、阿蘇氏の内紛に介入した重朝と為続が馬門原の戦いで激突すると、為光は これに乗じて為光は宇土城を回復した。 文亀元年(1501)、為光は明応8年(1499)に続く3度目の挙兵で重朝の子武運を玉祥寺原に 破り、隈府城を奪取して悲願を達成した。しかし、2年後の文亀三年(1503)、為光は相良氏や 肥前有馬氏の支援を得た能運(武運から改名)に敗れ、宇土城も攻め落とされて滅んだ。 翌永正元年(1504)、能運は23歳の若さで急死した(為光との戦いで負った傷が原因とも)。 菊池家中の混乱のなかで宇土城は空城となり、これに乗じて前出の名和顕忠が宇土城を占拠 した。顕忠は為光の娘婿であり、顕忠の孫の行興のころから、名和氏は宇土氏を併せて称する ようになった。為光以前を菊池流宇土氏、顕忠以降を名和流宇土氏として区別することもある。 島津氏が相良氏を降して北上すると、名和氏もこれに従った。天正十五年(1587)に豊臣秀吉 が九州平定に乗り出すと、顕忠から数えて6代目の顕孝は城を開いて降伏した。まもなく、顕孝 は同じ肥後の有力国人である城久基や小代親泰とともに大坂城へ召し出された。すると、同年 に新たな肥後国主となっていた佐々成政に対する大規模な国人一揆(肥後国人一揆)が勃発し、 顕孝の弟顕輝も宇土城に立て籠もった。翌十六年(1588)、顕輝は鎮圧軍に敗れて討ち死にし、 顕孝は筑前へ所領替えとなった。成政は切腹を命じられ、佐々領のうち宇土を含む南半分は、 小西行長に与えられた。行長は宇土古城を廃し、東の丘に新しく(近世)宇土城を築城した。 <手記> 宇土古城は、緑川と浜戸川の氾濫原に広がる宇土市街の西の外れ、西岡台と呼ばれる独立 丘上に築かれています。すぐ東隣の丘には近世の宇土城が築かれたため、対比で宇土古城と 呼ばれることが多いのですが、困ったことに中世宇土城の方が「宇土城址」として国の史跡に 登録されているため、他の類例以上に、単に「宇土城」と呼んだときにどちらを指すのか分かり にくくなっています。 史跡指定に伴い、城跡は発掘調査を経て公園化されています。西岡台は東西2つのピークを もつ緩やかな小丘ですが、このうち東側の峰を「千畳敷」、西側を「三城」と呼びます。千畳敷が 主郭であったと考えられています。主郭の周囲には空堀が巡っていて、保存処理されたうえで 地表復元されています。本丸虎口の門や本丸の建物の一部が模擬復興され、当時のようすが かなり想像しやすくなっています。 本丸の周囲には、前出の空堀と竪堀のほかにも、古墳時代の首長居館のものとされる堀が 巡っています。両者が併存していたとは考えにくいのですが、当初の宇土城はこの首長居館を 転用したものと考えると、11世紀築城説というのもありえるのかな、と感じられます。 三城には堀はなく、西端にのみ土塁が設けられていたとみられています。そして、宇土古城 最大の遺構といえる大空堀が、三城の西にあります。西岡台が西側に対して峰続きであれば、 この堀は尾根を断ち切る堀切として理解できるのですが、西岡台は独立丘なので用途が少々 不明瞭です。 宇土古城は、緩やかで広い丘であるにもかかわらず千畳敷と三城の2つ以外に取り立てて 曲輪形成されているようすがみられず、攻撃が予想される方角とは言い難い西側に最大級の 堀を設けるなど、城砦として不自然な点が多々見受けられます。宇土氏の歴史の長さを考える と、宇土古城のお粗末な構造はなんとも謎といわざるを得ません。 |
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宇土古城址遠望。 | |
千畳敷虎口のようす。 | |
千畳敷を囲む堀跡。 | |
千畳敷下の竪堀跡。 | |
千畳敷のようす。 | |
同上。 奥に虎口、柵列、復興建造物。 |
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千畳敷を囲む古墳時代の首長居館の堀跡(舗装部分)。 | |
「史跡宇土城址」碑越しに三城を望む。 | |
三城のようす。 | |
三城背後の大空堀。 |