和歌山城(わかやま)
 別称  : 虎伏城、竹垣城、若山城
 分類  : 平山城
 築城者: 豊臣秀吉・秀長
 遺構  : 門、石垣、堀、井戸跡、庭園、虎口
 交通  : JR/わかやま電鉄和歌山駅または
       南海電鉄和歌山市駅徒歩15分


       <沿革>
           天正十三年(1585)、紀州を平定した豊臣秀吉は、弟秀長に紀伊国を与え、その府城として
          「吹上の峰」に自ら新城の縄張りを行った。それ以前には、雑賀衆の土橋氏の砦があったとも
          いわれる。南の峰続きにあった岡山には、畠山高政が築いた岡山城があった。普請奉行には
          秀長家臣の藤堂高虎・羽田正親・横浜一庵が任じられた。同年中に、本丸と二の丸の工事が
          終了した。一帯を若山と呼んだことから若山城と命名されたが、後に景勝和歌浦にちなんで
          和歌山城と改められた。また、城山を虎が伏した様子に見立てて虎伏城とも呼ばれた。
           秀長自身は大和の郡山城を居城としており、和歌山城には重臣桑山重晴が城代として派遣
          された。重晴は3万石を知行されていたともいわれるが、定かでない。秀長とその養子秀保が
          世を去ると、重晴は孫の一晴に家督を譲って隠居した。すなわち、秀保の死により、桑山氏は
          城代かられっきとした和歌山領主となった。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、一晴は大和国布施へ移封となり、和歌山城には浅野
          幸長が、紀州一国37万石余で入った。ここまでの和歌山城の歴史を一般的には桑山時代と
          呼ぶが、このときの和歌山城は現在の天守曲輪・本丸・二の丸を城域とするもので、前者から
          それぞれ本丸・二の丸・三の丸と呼称されていた。
           浅野氏時代に、城内の土塁であった箇所が石垣に改められ、本丸には天守が建造された。
          幸長は慶長十八年(1613)に和歌山で若くして没した(毒殺説有)。跡を弟の長晟が継いだが、
          元和五年(1619)に広島へ加増転封となった。
           代わって、徳川家康の10男頼宣が55万5千石で和歌山に入り、御三家の1つ紀州家が成立
          した。頼宣は、元和七年(1621)から和歌山城の改修に取り掛かった。それまで、城山南東の
          岡口門が大手であったが、これを二の丸北東の一の橋に移し、岡山と峰続きであった南側を
          堀り切って三年坂とし、城山の南と西に新たに曲輪と高石垣を設けた。この工事に際しては、
          将軍家より普請の自由が認められ、費用として銀2千貫が下賜されていたが、あまりに作事の
          規模が大きかったため、幕府より嫌疑をかけられる結果となった。
           寛永六年(1629)には、南の丸櫓台と吹上口の石垣を普請した。正保年間(1544〜48)には
          城下町の拡大を図り、それに伴って城の南に新たな惣構の外堀を掘削しようとしたが、やはり
          幕府からの嫌疑を受けて、堀の工事は中止となった。この逸話の名残は今日も「堀止」の地名
          にみられる。
           弘化三年(1846)、天守への落雷が原因で、山上の建築物のほとんどが焼失した。御三家と
          いう家格から、天守再建が比較的容易に許可され、嘉永三年(1850)には三層の天守が完成
          した。このとき、天守を五層とする計画もあったとされる。
           明治維新の後、建物の多くは解体されたが、二の丸御殿は明治十八年(1885)に大坂城
          移築された。昭和十年(1935)に、天守など11棟が国宝に指定されたが、同二十年(1945)の
          空襲で焼失した。現在の天守群は、同三十三年(1958)に鉄筋コンクリートで復興されたもの
          である。


       <手記>
           和歌山城の大手門を目指すと、御三家とは思えないこじんまりとした佇まいに拍子抜けして
          しまいます。おそらく、その奥にある桝形の一の橋御門が大手二の門の扱いだったのでしょう。
          一の橋御門の桝形を抜けると、天守曲輪へは右左2手のルートに分かれます。二の丸御殿跡
          から登る右手ルートは、私が訪れたときには通行止めとなっていたので、本丸南の松の丸を
          経由する左手ルートを行きました。和歌山らしく途中にはしばしば梅の木が植えられ、ちょうど
          梅の花と天守のコラボが楽しめる時期でした。
           本丸は給水場となっていて、立ち入ることはできません。将軍吉宗が若き日を過ごした城で
          ありながらなおこの状態というのは、なんとも残念です。天守曲輪の天守群は外観復元なの
          で、内部は普通の資料館ですが、くるっと一周できるので楽しいです。大天守からは和歌山
          市街が一望できます。こうして眺ると、紀州の主府は和歌山城のある虎伏山をおいて他には
          ないな、と感じさせられます。
           山を南へ下りると、南の丸はミニ動物園となっています。南の丸の東にある岡口門は、上記
          のとおりかつての大手門で、貴重な現存遺構です。南の丸の西には、城山麓の小谷を挟んで
          護国神社の建つ丘があります。この外側に、徳川時代に入って設けられた三年坂の堀切と、
          屏風折れの石垣があるのですが、おそらくそれ以前の和歌山城は、この小谷を後背の守りと
          していたのでしょう。
           屏風折れ石垣の両端には、高櫓台と追廻門があります。追廻門は、現存の朱塗りの高麗門
          です。追廻門の向こうは砂の丸で、砂の丸の東には鶴之渓と呼ばれる堀底状のテラスがあり
          ます。ここは浅野時代の庭園跡ということですが、今では桑山時代の高石垣を片手に、城内で
          最も静かで幽玄な場所のひとつです。鶴之渓と北側の西の丸の間には、徳川頼宣が造営した
          紅葉渓という庭園があります。ここには、御亭や廊下橋が復元されています。二の丸の水濠が
          そのまま庭園の池泉とつながっているのが特徴で、園内の築山の起伏も、本来であれば土塁
          にされたり均されて曲輪にされているところの城山の裾野を利用しており、城とうまく一体化した
          素晴らしい庭園であると思います。
           和歌山城の大きな特徴の1つは、城主家を務めた桑山氏・浅野氏・徳川氏の3時代で石垣の
          組み方が大きく異なるという点です。桑山時代のものは、和歌浦などで産出される緑色片岩と
          呼ばれる板状の石を野面積みにしたもので、見た目の美しさをさほど重視していないワイルドな
          石垣です。浅野時代の石垣は砂岩を用いた打ち込みハギとなります。徳川時代になると、同じ
          砂岩でもきっちり辺を揃えた切り込みハギとなり、浅野時代と徳川時代は岩質は同じで積み方
          のみが異なります。これら3期の石垣を見比べながら城内を散策するというのも、和歌山城の
          楽しみ方の1つであろうと思います。

           
 本丸付近から大天守を望む。
天守二の門前から大天守を望む。 
 天守二の門。
大天守からの眺望。 
 大手門と一の橋。
岡口門。 
 追廻門。
城山と護国神社の間。 
浅野時代までの背後の堀切跡と思われます。 
 三年坂から高櫓台と大天守を望む。
城山後背の屏風折れ石垣。 
 鶴之渓。
紅葉渓庭園。 
 鶴之渓付近の桑山時代の高石垣。
 緑色片岩による野面積み。
砂の丸南門跡。浅野時代の石垣。 
砂岩による打ち込みハギ。 
 一の橋門桝形跡。徳川時代の石垣。
 砂岩による切り込みハギ。


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