和利宮城(わりのみや)
 別称  : 和利宮館
 分類  : 平山城
 築城者: 塩谷氏
 遺構  : 土塁、堀跡か
 交通  : JR吾妻線中之条駅徒歩25分


       <沿革>
           吾妻三家のひとつ塩谷氏の居城とされる。塩谷氏の出自は不明だが、吾妻四郎助光が
          承久の乱で戦死したころには、他の吾妻三家とともに吾妻氏配下に名を連ねていたようだ。
           助光死後に吾妻氏が衰えると、吾妻三家は中之条周辺の領地を三分した。和利宮城が
          築かれたのはこれ以降と思われるが、詳しい築城年代は不明である。
           文明五年(1473)、塩谷氏は内訌を起こし、これにつけこんだ岩櫃城主大野義衡により
          滅ぼされた。『加沢記』によれば、和利宮城主塩谷掃部介秀治には娘が1人だけあったが、
          これを甥の仙蔵城主源二郎元清に嫁がせた。しかし、夫婦仲が悪くなり、娘は身ごもった
          まま父のもとへと帰って来た。秀治は娘の行動に怒り、城へ入れなかったため、仕方なく
          娘は大野氏を頼った。義衡がこれを喜んで匿ったところ、娘は岩櫃城で男児を出産した。
          結果として、秀治は娘と跡取りの孫を人質に取られた格好となり、義衡に降伏を余儀なく
          された。その後、義衡は塩谷氏一族の蟻川、池田、尻高および塩谷氏家臣の割田、佐藤、
          中田らの各氏を抱き込んで、秀治を殺害した。
           秀治の孫は義衡によって市場(一場)二郎と名付けられ、義衡の二男として養育された
          とされる。二郎のその後については不明である。
           岩下城主斎藤憲次が大野憲直を滅ぼして岩櫃城主となった際、塩谷氏も憲次に従った
          とされる。また、永禄三年(1560)に斎藤憲広が羽尾氏と組んで鎌原氏を攻めた際には、
          塩谷将監が斎藤方の将として鎌原城へ攻め寄せている。これらのことから、秀治殺害後も
          塩谷氏は存続していたと考えられるが、その居城が和利宮城にあったかは定かでない。


       <手記>
           和利宮城は、中之条駅北側の山腹にあったとされています。和利宮とは吾妻神社のこと
          ですが、吾妻神社は現在東へ500mほどの平地に遷されており、その跡には伊勢宮が鎮座
          しています。
           和利宮城について、『日本城郭大系』では丘裾とのみ記し、『中世城館調査報告書集成』
          では本殿から参道をやや下ったところに堀ないし土塁の存在を記載しています。たしかに、
          『集成』の示すあたりに堀跡のような池や土塁状の地形が見受けられるのですが、本当に
          城の遺構かというと、少々判断に窮します。一帯は急な斜面となっているため、ちょっとした
          要害程度ならまだしも、平時の居館が営まれるようなところとは考えにくいように思われます。
          伊勢宮本殿にかけて、数段の削平地が設けられていたのかもしれませんが、平時の居館は
          もっと麓にあったのではないかと推測されます。

           
 伊勢宮本殿。
土塁跡か。右手には堀跡のような池。 
 和利宮城址周辺からの眺望。


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