岩下城(いわした)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 斎藤氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口跡
 交通  : JR吾妻線岩島駅または矢倉駅徒歩25分


       <沿革>
           応永十二年(1405)に岩櫃城に入った吾妻斎藤氏の祖斎藤憲行は、勢力拡大と地盤の
          確保を図って息子たちを領内各地に配した。憲行の六男幸連は、富沢三郎を称して岩下に
          置かれた。岩下城は、この幸連によって築かれたと推測されるが、詳しい築城年代は不明
          である。
           その後、憲行の五男大野憲基の孫義衡は、本家を凌駕して岩櫃城を乗っ取るに至った。
          義衡の孫憲直は、大永年間(1521〜28)に植栗城主植栗元吉と諍いを起こし、岩下城主
          斎藤憲次に討伐を命じた。憲次は憲行の四男山田基政の孫とされるが、山田氏が岩下城
          に移った経緯や、その頃の富沢氏の所在などは不明である。憲次は、元吉と懇意であった
          ことから(縁戚関係にあったとも)、逆に元吉と共謀し、植栗城に向かうと見せかけて岩櫃城
          を急襲した。憲次は大野氏を滅ぼし、岩櫃斎藤氏本家を継承した。憲次は、岩下城に幸連
          の孫富沢基光を入れた。
           永禄三年(1560)、憲次の子憲広は上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)に従ったが、
          同年に記された『関東幕注文』には「岩下衆」として載せられている。これが岩下の出という
          意味なのか、岩下城主であったことを指すものかは詳らかでない。
           永禄六年(1563)、岩櫃城は武田信玄の命を受けた真田幸隆によって攻略され、憲広は
          上杉氏を頼って落ち延びた。憲広の嫡男憲宗は、同八年(1565)に嵩山城で挙兵したが、
          同年中に幸隆によって攻め落とされ、吾妻斎藤氏は滅亡した。基光は真田氏に臣従したが、
          岩下城のその後については明らかでない。

       <手記>
           岩下城は、岩櫃山系の西方に突き出た支峰上に築かれた城です。北から西麓にかけて、
          吾妻川の支脈が流れています。今回、「儀一の城館旅」管理人の儀一さまのご指導により、
          この支脈沿いの林道から城の北麓に回り、そこから道なき斜面をよじ登るルートをとりました。
          以前、上の地図にもある岩島中学校東脇の林道を伝って城裏手の尾根筋から登ろうとした
          のですが、藪があまりにひどくて諦めたことがあります。城山の南西麓にでる大手道と思しき
          古道は、後述の通り下から登るのは困難で、結局明確な登城路はないようです。
           運よく間伐されたばかりの開けた斜面を登ると、目の前に岩下城最大の遺構である大堀切
          が現れます。まだ城内にもたどりついていないのに、苦労した甲斐があったと早くも思わせて
          くれる立派な遺構です。
           一般に、この堀切の西側が本丸、東側が二の丸とみなされているようです。標高では、上の
          地図の通り、二の丸の方がやや高い位置にあるようです。本丸も二の丸も上下2段に分かれ
          ています。本丸下段に、秋葉神社が祀られています。本丸上段の堀切側には土塁が設けられ
          ており、その北端の切れ目が虎口跡と思われます。虎口の北には、堀切に沿って竪土塁が
          長々と続いていますが、その西側は、削平地が段築状に連なっているだけです。このような、
          果樹畑のように平場が段築状に続くだけという単純な縄張りは、周辺の城にわりと散見され
          (長野原城白狐城など)、真田氏以前の吾妻地方の城の特徴ではないかと個人的に推測
          しています。
           他方、二の丸側は、背後の尾根筋に2条ないし3条の堀切を設けており、新たに増設された
          部分であることが分かります。
           本丸下段の南側から、麓へ下りる旧道があり、かつての大手道と思われます。この道は、
          途中で何度も半ば消滅しながら九十九折れに麓まで通じています。行き着く先は民家の畑の
          畦なので、前述のとおり下からこの道を通って本丸まで迷わずにたどり着くのは、かなり困難
          と思われます。下りる途中、竪堀状に堀底道になっている箇所や、根小屋のような削平地が
          あります。おりきったところにある広い畑は、城主の居館址のように見受けられます。
           最後に、『日本城郭大系』では、大堀切によって分断された本丸と二の丸について、「一城
          別郭」という言葉を使っています。『大系』の著者は、他にも吾妻の城には一城別郭が多いと
          興奮した様子で書いておられます。ですが、「一城別郭」とは、普通は同じ城山にありながら
          (たいてい山城でみられる形態のため)、さながら本丸が2つあるように、2つの城域が高度に
          並立しているような構造を指していうものです。岩下城をはじめ、この著者が一城別郭として
          挙げている諸城は、どれも大きな空堀によって堀り切られているというに過ぎず、片方が落ち
          たときにはもう片方が直で攻撃に晒されてる関係にあります。とても相互が高度に独立して
          いるとは言い難く、『大系』の著者は「一城別郭」の意味を正しく理解していらっしゃらないよう
          に見受けられます。

           
 岩下城址遠望。
大堀切を下から見上げる。 
 二の丸側から大堀切越しに本丸土塁を望む。
大堀切に並行する竪土塁。 
 本丸下段の秋葉神社。
本丸上段のようす。奥に土塁が見えます。 
 虎口跡と思しき箇所。
二の丸下段から上段を望む。 
 二の丸上段のようす。
二の丸背後の堀切1条目。 
 2条目の堀切。
本丸から下る古道の堀底道となっている部分。 
 本丸南西麓の根小屋と思しき削平地。


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