鷲宿城(わしじゅく) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 塩谷貞朝 | |
遺構 : 土塁、切岸 | |
交通 : JR東北本線片岡駅徒歩30分 | |
<沿革> 一般に、藤姓宇都宮氏庶流塩谷泰朝の次男ないし三男の朝宗によって、応永年間(1394〜 1428)に築かれたとされる。朝宗の子貞朝は鷲宿四郎を称したとされ、鷲宿氏を興した可能性 も考えられている。ただし、泰朝の没年が弘安元年(1279)であることから、その子が応永年間 に城館を築くことは、生物学的に不可能と思われる。あるいは正応年間(1288〜93)の誤りとも 考えられるが、確証はない。また、このころの塩谷氏には2流あり、源姓塩谷氏の大蔵ヶ崎城主 塩谷惟縄は、嗣子なく藤姓塩谷氏から塩谷忠朝を婿養子に迎えたとされる。この忠朝を貞朝と 同一人物とする向きもある。 『日本城郭大系』によれば、天正十八年(1590)に、川崎城主塩谷孝信が重臣岡本正親の 謀略によって豊臣秀吉の譴責を受け、鷲宿城に退いたことが『那須記』にあるとされる。しかし、 孝信は同十四年(1586)に没しており、兄義孝との相克の記述などにも混乱がみられ、信憑性 が高いとはいえない。 したがって、貞朝以降の鷲宿城の動向については、実際のところほとんど不明である。 <手記> 内川右岸の台地上にある松岩寺が鷲宿城跡です。三方を囲む土塁が良好に残り、前面の 整備された斜面も、切岸の傾斜をそのまま利用しているものと思われます。境内に城跡を示す 碑や説明板などはありませんが、ここが城館跡であることは、中世城郭ファンなら容易に読み とれるでしょう。 南西隅付近の土塁が開口しており、虎口跡とも思われます。土塁はしっかりしていますが、 規模は開発領主の居館程度の域を出ておらず、少なくとも城砦としての機能は、さほど期待 されていなかったものと推測されます。 |
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鷲宿城跡の松岩寺。 | |
前面の傾斜。切岸跡か。 | |
同上。 | |
松岩寺境内。 | |
南西隅の土塁。 | |
同上。虎口跡か。 |