渡辺城(わたなべ) | |
別称 : 宮内少輔城、一乗寺渡辺城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 渡辺告か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : 叡山電鉄一乗寺駅徒歩15分 | |
<沿革> 土豪渡辺宮内少輔昌の居城とされる。昌の父出雲守告は一乗寺の南の田中郷の住人で松永 久秀に仕えていたとされる。『寛永重修諸家譜』には、告の長男左馬助重が弟昌とともに一乗寺 に城を構えて住したとある。また、重については天正元年(1573)に足利義昭が織田信長に対し 挙兵した際、義昭に従って槇島城に入り敗れたとあるが、その後については不明である。 昌については、やはり義昭に呼応して磯貝新右衛門とともに一乗寺で兵を挙げたが、まもなく 降伏したことが、『兼見卿記』や『信長公記』に記されている。ただし、このとき昌らが籠ったのは 渡辺城ではなく、曼殊院背後の一乗寺山城か修学院背後の雲母(坂)城とみられている。 本能寺の変の後、昌は羽柴(豊臣)秀吉に馬廻衆として仕えたとされるが、渡辺城のその後に ついては不明である。ちなみに、昌の子は大坂の陣で豊臣方の中心人物の1人となった内蔵助 糺である。 <手記> 渡辺城は、一乗寺瓜生山から延びる裾野の端にあります。現在も城地内に渡辺氏のご子孫の 居宅があり、立派な長屋門の前に「宮内少輔城址」の石碑が建てられています。ただ、渡辺糺の 子の守は、一旦僧籍に入った後に還俗して徳川綱重に仕えたとされるので、こちらの渡辺氏は 糺の子孫というわけではないのでしょう。 山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53 号』)には、北を除く三方に堀跡が残るとありますが、そもそも地形的に地続きなのが北のみで、 東から南へは沢が流れているので、堀跡と呼ぶのは少々違和感を覚えます。むしろ、この三方は 人工的に切岸されたようすが見受けられ、堀というより土塁としての遺構の方が顕著であるといえ ます。 曼殊院や詩仙堂に近いので、遺構が残る中世城館跡としては、京都観光のついでに立ち寄る ことのできる貴重なものの1つであると思います。 |
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宮内少輔城址碑。 | |
西辺の土塁。 | |
東辺の土塁。 | |
南辺の土塁。 |