田中構(たなか)
 別称  : 田中渡辺城、田中城
 分類  : 平城
 築城者: 田中郷民
 遺構  : なし
 交通  : 叡山電鉄元田中駅または市バス「叡電元田中」
       バス停下車


       <沿革>
           文明七年(1474)、応仁の乱の混乱を受けて、田中郷の郷民によって築かれた。しかし、同年中に
          西軍の攻撃を受けて炎上したという。その後、天文五年(1536)に始まった天文法華の乱に際して、
          法華宗門徒による焼き討ちに遭った。
           法華の乱の前後いずれかは分からないが、土豪渡辺氏の城館となった。渡辺氏は渡辺城を本拠と
          する在地領主で、将軍足利義輝が暗殺された永禄八年(1565)には、渡辺十乗坊なる人物が鴨川
          の頭に下鴨城を築いて松永久秀と対峙した。
           しかし、『寛政重修諸家譜』には、田中の住人渡辺出雲守告が久秀に仕えていたとある。告の子の
          左馬助重と宮内少輔昌は、一乗寺に渡辺城を築いて住んだとされる。田中の渡辺氏も別に存続した
          ようであるが、詳しい系譜は不明である。『兼見卿記』の天正十年(1582)十二月七日の項に、田中
          村の庄屋として渡辺弥十郎の名が挙がっている。したがって、この頃までには城館としての田中氏の
          館は廃されていたものと推測される。


       <手記>
           田中構は、田中神社を中心とする郷民の自衛用の防塁とされています。現在では、とくに遺構等は
          見受けられません。門前の神社に関する説明板に、田中構についても触れられています。
           山本正男「京都市内およびその近辺の中世城郭」(『京都大学人文科学研究所調査報告 第53号』)
          では田中渡辺城として記載されていますが、その示す場所は田中神社からは東大路通を挟んだ西側
          にあります。表記ミスなのか、あるいは田中構とは別に渡辺氏が城館を営んでいたのかは不明です。

           


田中構跡の田中神社。


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