天神山城(てんじんやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 小国氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、石塁、池
 交通  : JR越後線岩室駅から車で15分


       <沿革>
           越後国人・小国氏累代の居城である。小国氏は摂津源氏・源頼政の弟頼行の孫頼連が、
          鎌倉時代初期に越後国刈羽郡小国保の地頭職を得たことに始まる。天神山城の築城主を
          頼連とする向きもあるが、小国保と弥彦には距離的な隔たりがあり、疑問が残る。
           建武二年(1335)、南朝方に属した小国氏嫡流の小国政光は、信濃川河口の金鉢山に
          蒲原津城を築いて拠点とした。天神山城も、実際にはこれに前後して築かれたものと推測
          される。蒲原津城は暦応四/興国二年(1341)に北朝方に攻め落とされ、政光もまもなく
          戦没したとみられている。小国氏嫡流は途絶えたとされ小国保も失ったが、政光の大叔父
          にあたるとされる小国頼景が天神山城で代を重ね、以後こちらが小国氏の本流となった。
           頼景の子孫である小国頼久・重頼父子は、上杉謙信に仕えて多くの軍功を挙げた。天正
          六年(1578)の御館の乱を経て上杉景勝が謙信の跡を継ぐと、景勝の腹心である直江兼続
          の実弟与七が重頼の養嗣子として入り、小国実頼と名乗った。
           実頼は天正十四年(1586)に、姓を大国に改めた。これにより、天神山城主小国氏は名実
          ともに滅んだといえる。慶長三年(1598)に上杉家が会津へ転封となるに及んで、天神山城
          は廃城となった。


       <手記>
           天神山城は弥彦山系の一峰を利用した城で、山麓には岩室温泉街が広がっています。
          背後の石瀬峠と前方側の林道から訪城でき、前者の方が主郭までの登りは少ないものの、
          駐車場がなさそうです。私は林道から登りましたが、十分な駐車スペースがあり、道のりも
          大して苦ではなかったので、こちらをおすすめします。
           林道から登り始めると、ほどなく北東端ピークの物見台と呼ばれる曲輪に着きます。その
          先は尾根が土橋として削られていて、脇が石塁になっているというのですが、ほどんど自然
          の露岩のように見えました。
           面白いのは、その土橋から谷筋に入ったところにある瓢箪池と武者溜りです。瓢箪池は
          大小2つの浅い池から成っていて、どちらも今なお清水を湛えています。武者溜りは数段の
          削平地で構成される緩やかな広い空間で、文字通り兵の駐屯スペースとしての利用を想定
          したものなのでしょう。武者溜りの奥には急斜面の尾根筋に字「十三車」と呼ばれる階段状
          の腰曲輪群も見られます。
           いったん土橋に戻ってから遊歩道を上がると、間もなく主郭部先端の堀切に到着します。
          そこからは雛壇状の曲輪群が続き、薬研堀を越えると本丸(実城)です。本丸の背後には
          堀切を隔ててより面積の広い曲輪があり、その背後は高土塁と堀切で本丸以上に手厚い
          防備が施されていました。この曲輪は十三車の腰曲輪群の真上にあたり、城内防備の要と
          いうことなのでしょう。その先には、少し離れて最後尾の浅い堀切が1条認められます。
           大国実頼のころにどれほど手が加えられたかは不明ですが、有力国人・小国氏の居城と
          して興味深い構造を今に残し、また見学路も整備されていて満足度の高い城跡でした。

           
 天神山城跡を望む。
林道側の登山口。 
 物見台跡。
土橋。 
 土橋脇の石塁といわれる箇所。
瓢箪池。 
 同じく瓢箪池上流(左手)と下流(右手)。
 前者が飲用水で後者が日常用水と考え
 られているようです。
武者溜りと城址碑。 
 字十三車の腰曲輪群。
主郭部先端の堀切。 
 腰曲輪。
同上。 
 主郭前方の薬研堀。
本丸(実城)跡。 
 本丸背後の堀切。
本丸背後の曲輪の高土塁。 
 本丸背後の曲輪の堀切。
最後尾の堀切。 


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