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山家陣屋(やまが) |
別称 : 山家城 | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 谷衛友 | |
遺構 : 石垣、土塁、堀、井戸 | |
交通 : JR山陰本線山家駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正十年(1582)の本能寺の変および山崎合戦で丹波を領していた明智光秀が滅ぶと、 羽柴秀吉の家臣・谷衛友が山家郷に移され、6千石から1万6千石に加増された。衛友は 旧領主和久氏の山家城を修復して使用したとも考えられるが、詳細は不明である。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、衛友は徳川家康に従う意思を示していたが、 丹波の諸大名が総じて西軍に与したため、やむなく東軍の細川幽斎が籠もる田辺城攻撃 に加わった。しかし、幽斎は衛友の歌道の師であり両者はとして昵懇の間柄であったこと から、衛友は幽斎を通じて東軍に内応し、城攻めにおいては空砲を撃っていたといわれる (谷の空鉄砲)。 田辺城は勅命によって九月十三日に開城したが、攻城方1万5千は2日後の本戦に間に 合わず、西軍は敗北している。戦後、細川氏から報告を受けた家康は衛友の所領を安堵 した。事実として西軍に属していた衛友は、遅くともこのころまでに山上の山家城を廃し、 中腹に陣屋を整備したものと推測される。 衛友の跡は四男の衛政が継いだが、衛政は弟・衛冬に1500石、長兄・衛成の子・衛之 に2500石(上杉谷家)、三兄・衛勝の子・衛清に2000石を分知し、山家藩本家は1万石と なった。以後、山家藩谷家は所領の変動もなく13代を数え、明治維新を迎えた。 <手記> 山家陣屋は山家城山の中腹にあり、公園として整備されています。和久氏時代からの 館跡という可能性もあると思いますが、武家屋敷群は城山の南麓にあったとされ、こちら は出丸であったようにも感じられます。 地元では陣屋部を山家城、山城部を甲ヶ峰城と呼ぶようで、公園名もずばり山家城址 公園でした。家格としては間違いなく陣屋なのですが、規模的に城郭と呼びたくなるのも 頷けます。とくに、北辺から西辺にかけては横堀が巡り、部分的に石垣が用いられるなど 実戦的な防備が施されている点は驚きに値します。 城下町は上林川を挟んだ対岸にあったとされ、今も町並みに面影が残っています。また 両者を結ぶ橋は肥後橋と、陣屋から橋へ下りる道は肥後坂と呼ばれたそうです。これは 後に肥後国主となる細川家が関ヶ原戦後にが豊前へ加増・転封となった際、山家領内を 通って橋をプレゼントしたことにちなむとか。肥後橋の名は、今も国道27号線の車道橋に 受け継がれています。 |
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模擬表門。 | |
陣屋敷地内の鎮守社。 | |
陣屋敷地内のようす。 | |
井戸跡。 | |
北辺の横路堀を俯瞰。 | |
同上。 | |
北辺の石垣。 | |
北西隅のようす。 | |
西辺の石垣。 | |
西辺の帯曲輪状の平場。 | |
南西隅の空堀。 | |
城下町の様子。 | |
城下町付近から陣屋跡と山家城跡を望む。 |