柳ヶ城(やなが)
 別称  : 菊山城
 分類  : 山城
 築城者: 宍戸朝家か
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、井戸跡
 交通  : JR芸備線甲立駅徒歩10分


       <沿革>
           建武元年(1334)、鎌倉討幕の功により安芸国甲立荘を与えられた宍戸朝家(朝里)は、入国の
          時期は定かでないが、まず柳ヶ城を築いて居城とした。しかし、まもなく不適として本村川の対岸に
          五龍城を築いて移った。その後の柳ヶ城について史料上の記録はみられない。
           現存する遺構から、柳ヶ城は戦国時代中期ごろまでは使用されていたものと推察される。近年、
          安芸宍戸氏には2つの系統があり、そのうち片方が柳ヶ城に拠っていたとする説が呈されているが
          確証はない。また、宍戸氏中興の祖といわれる宍戸元家は、本家筋の常陸宍戸氏から入嗣したと
          伝えられているが、実際には庶流による下克上であったとする説もある。この場合、元家の居城を
          柳ヶ城に比定することもできるが、やはり推測の域を出ない。


       <手記>
           柳ヶ城は、菊山から突き出た一支峰を利用した城です。ひとつ隣の峰には甲立古墳があり、その
          北東の理窓院から古墳を経由して城跡背後の二重堀切まで踏み分け道が通じています。これを
          知らなかった私は南麓から直登し、堀切の向こうに道が付いているのを見て呆気に取られてしまい
          ました(笑)。なので、下の写真は私が訪れたのと順番が逆になっています。
           さほど大きな城とは言えず、上述の通り背後の尾根筋を二重堀切で断ち、主郭前方に腰曲輪を
          連ねただけの単純な縄張りです。かつて甲立古墳は柳ヶ城の一部とみられ、2008年に「発見」され
          たのだそうです。たしかに山中の前方後円墳とて背後は堀切状になっており、そのまま城砦として
          転用できる形状をしています。実際に、出丸として防備の一端を担っていたとしても不思議ではない
          でしょう。とはいえ、これだけの古墳が市街地の裏山に人知れず眠っていたというのは意外です。
           さて、上述のように現状の柳ヶ城は間違いなく戦国時代の遺構と構造を有しています。宍戸元家
          がわざわざ常陸から武者修行で訪れたというのは話が出来過ぎていて、庶流による主家簒奪という
          のは、個人的にはかなり首肯できる話と考えています。その場合、諸国修行云々という言い伝えは
          簒奪の事実を覆い隠すための創作とみられているようです。
           ここから私はさらに敷衍して、柳ヶ城はそもそも朝家の築城ではなく、五龍城宍戸氏からの分家が
          新たに築いて拠ったものではないかと拝察します。というのも、柳ヶ城の立地は南北朝時代の武家
          の居城としては、あまり見られないように思われるからです。すなわち、宍戸氏庶流が柳ヶ城に分家
          し、その子孫である元家が五龍城の主家を簒奪した。その後、自身の拠った柳ヶ城がそもそも家祖
          たる朝家の築いたものと喧伝することで、諸国修行の逸話と同じく下克上を正当化する伝承として
          定着したのではないかと、私見ながら推察しています。

 五龍城尾崎丸から柳ヶ城跡を望む。
最後尾の堀切。 
 同上。
主郭背後の堀切。 
 主郭背後の土塁。
主郭のようす。 
 主郭付壇のようす。
主郭下の腰曲輪。 
 腰曲輪の切岸。
同じく腰曲輪。 
 甲立古墳の後円部。
同じく前方部。 


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