五龍城(ごりゅう)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 宍戸朝家
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、井戸跡
 交通  : JR芸備線甲立駅徒歩10分


       <沿革>
           安芸の有力国人・宍戸氏累代の居城である。宍戸氏は宇都宮宗綱の子・八田知家を祖とし、その
          四男である家政が常陸国宍戸荘を分与されたことに始まる。家政の5代子孫とされる朝家(朝里)は、
          鎌倉討幕の功により安芸国甲立荘を与えられた。朝家の入国時期は定かでないが、はじめ柳ヶ城
          に入ったものの、まもなく向かいの元木山に新城を築いて移ったとされる。このとき、水源が不足した
          ため五龍王を勧請して祈願したところ井戸水が湧きだしたため、五龍城と名付けられたと伝わる。
           朝家の5代子孫とされる興家は、暗愚で領民は悪政に苦しんだとされる。このおり、本家筋にあたる
          常陸宍戸氏の宍戸時宗の子・元家が諸国修行の途中で五龍城に立ち寄り、その資質を見た家臣ら
          に強く推されて興家から家督を譲られたする伝承がある。ただし、この言い伝えに確証はなく、元家
          の出自については詳らかでない。いずれにせよ、元家により安芸宍戸氏が新たな系統へ移ったこと
          は事実とみられ、また元家は中興の祖として宍戸氏の勢力を拡大させた。
           元家の子・元源は勇将かつ豪放磊落な性格であったといわれ、また弟の司箭院興仙(宍戸家俊)
          は、山伏として兵法や武術に長けていたことから京の細川政元に仕えて寵愛された。そのため元源
          は京との独自のパイプを築くことができ、安芸国内でもとくに強い独自性を維持した。
           宍戸氏は隣領の毛利氏とはしばしば対立してきたが、高橋氏を滅ぼした毛利元就はその領地の
          一部を割譲するなどして元源との関係修復を図った。天文三年(1534)、年賀の挨拶のため五龍城
          を訪れた元就は、元源と面会して意気投合し、その場で元源の嫡孫・隆家と元就の次女との婚姻が
          取り決められたといわれる。彼女は以後、五龍局と呼ばれ、その娘の一人・南の大方は元就の嫡孫・
          輝元の正室となった。
           この後、宍戸氏は毛利氏の一門として重要な役割を果たすことになる。天文九年(1540)の郡山
          合戦(吉田郡山城の戦い)では、元源が五龍城に籠って尼子勢と対峙した。吉田郡山城が大拡張
          されると、五龍城も徐々に拡張されていったものと推測される。
           天正二十年(1592)に隆家が没すると、嫡孫の元続が跡を継いだ。慶長五年(1600)の関ヶ原の
          戦いで毛利家が安芸国を失うと、元続も主家に従って長州へ移り、ここに五龍城は廃城となった。


       <手記>
           五龍城は江の川と本村川の合流点に細く突き出た峰を利用しています。先端下に駐車スペースが
          あり、説明板も設置されているので訪城は容易です。登り口は南北2か所にありますが、個人的には
          北側からが無難と思います。登って最初に出る尾崎丸には、前出の司箭院興仙を祀った司箭神社が
          鎮座しています。
           五龍城の特徴は、本丸と先端側の尾崎丸〜櫓ノ段、そして最高所の御笠丸と、大きく3つの曲輪群
          に分かれている点にあります。いずれの曲輪群も背後に堀切を設けているため、先端側から3段階に
          拡張されたものと考えるのが妥当でしょう。尾崎丸エリアと本丸エリアの双方に、それぞれ「一位ノ段」
          と呼ばれる曲輪が存在するのも、傍証であるといえます。
           城内は司箭神社から先も登城ルートが整備されていて、曲輪ごとに標識が設置されています。私が
          訪れたときは、この木製の標識が根元から腐っていて多くが無残にも倒れていたので、目につく限り
          で起こして木に立てかけておきました。もしまた倒れているようでしたら、ぜひ立て直していただけたら
          と思います。また、はっきりした登城路が設けられているのは本丸までで、御笠丸へはそこから直登に
          なります。
           縄張り自体にはさほど工夫はみられませんが、とにかく規模が大きく、毛利家中における宍戸氏の
          重要性がうかがえます。また、城内に石塁の跡が多く見られるのも特筆すべき点です。技術はさほど
          ではなく高さもありませんが、かなり広範囲に用いられており、往時の壮観たるやいかばかりだった
          かと拝察されます。
           城内でひとつ興味を惹いたのが、本丸の北西下にある御風呂の段です。かなり広い曲輪であるうえ
          に防備と関係ない箇所に石塁がみられ、名称からしても迎賓館のような施設があったのではないか
          と考えています。

 五龍城跡全景。
先端下、駐車場脇の説明板。 
 尾崎丸と司箭神社。
尾崎丸背後の細峰。 
堀切跡かは不明です。 
 一位ノ段。
櫓ノ段。 
 櫓ノ段背後の堀切と土塁。
本丸域の一位ノ段。 
 三の丸の石塁跡。
三の丸。 
 釣井の段の井戸跡。
二の丸。 
 桜ノ段。
桜ノ段の石塁。 
 姫ノ丸。
姫ノ丸サイドの石塁跡。 
 本丸と背後土塁。
本丸背後の堀切。 
 御風呂ノ段。
御風呂ノ段の石塁跡。 
 御笠丸へ登る尾根筋の堀切。
同じく腰曲輪。 
 御笠丸下の曲輪の石塁跡。
御笠丸下の曲輪。 
 同じ曲輪から御笠丸の切岸を見上げる。
御笠丸切岸の石塁跡。 
 御笠丸のようす。
御笠丸背後の土塁。 
 御笠丸サイドの帯曲輪。
御笠丸背後の堀切。 
土橋は後世の造作か。 
 堀切に伴う竪堀。
同上。 
 同上。
堀切脇の函型区画。 
 最後尾の土橋状土塁。
土橋状土塁脇の足軽ノ段。 


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