八代城(やつしろ) | |
別称 : 松江城、白鷺城、不知火城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 加藤忠広 | |
遺構 : 石垣、堀 | |
交通 : JR肥薩線八代駅よりバス 「市役所前」バス停下車 |
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<沿革> 元和五年(1619)三月、大地震によって麦島城が倒壊すると、熊本藩主加藤忠広は幕府の許可を得て、 麦島城を廃城とし、同年九月より徳渕の北岸の松江に新城の築城を開始した。同八年(1622)に落成し、 麦島城代加藤正方が引き続き八代城代を務めた。 寛永九年(1632)、加藤家は改易となり、代わって細川忠利が入封した。八代城は忠利の父三斎忠興 の隠居城となり、北の丸に住した。本丸には忠興の4男立孝とその子行孝が住んだが、正保二年(1645) に忠興・立孝父子が相次いで死去すると、翌三年(1646)に行孝は宇土へ移され、八代城には家老松井 興長が入った。興長の父康之は、はじめ忠興の父幽斎藤孝と同格の足利将軍家直臣であった。細川家 の家老となった後も、松井家は徳川幕府から別個に所領を安堵されており、徳川家からみれば陪臣でも あり、直臣でもあるという特殊な身分であった。興長には男子がなく、忠興6男の寄之を養子とした。寛文 十二年(1672)には4層5階の天守が焼失したが、その後再建されることはなかった。 以降、八代城は熊本藩内で唯一の一国一城令の例外として存続し、松井家が3万石で明治維新まで 城主を務めた。 <手記> 八代城は、球磨川河口の分流前川の北岸に築かれた城です。八代というのは割と広域を指す地域名 のようで、麦島城とその前身である古麓城も、広義で八代城と呼ばれているようです。松井家の八代城 を狭い意味で呼ぶ場合は、松江城とするのが一般的です。 松江城は、現在の地図で見ると要害性で他の2城に劣っているように感じられます。かつての八代は、 前川が球磨川とつながっておらず、徳渕の津と呼ばれる入り江になっていました。他方で、城の西と北は 海浜から続く遠浅の低湿地となっていたそうで、旧麦島城下町とつながる東側以外は水に守られた要害 の地だったようです。 現在、本丸部分が八代宮境内として残っています。参道は南に開いて橋が架かっていますが、これは 後世に作られたもので、当時は本丸へは東の二の丸か北の北の丸から入るようになっていました。この ほかの本丸外周の石垣はとてもよく残っています。とくに天守台石垣の雄大さは、とても陪臣の城とは 思えないほどです。 八代城は、本丸の周囲に馬出しを大きくしたような4つの曲輪が巴状に囲っています。このような曲輪 の形状と配置は、『日本城郭大系』が指摘する通り、名古屋城とよく似ています。加藤家は名古屋城の 普請に深く携わっており、大坂の陣以後に築かれた近世城郭として、かなり洗練された城であったもの と思われます。 しかしながら、せっかくの縄張りも、本丸以外はすっかり市街地化されて消滅しています。本丸の北の 松井神社の東端に、北の丸の石垣が残っていますが、本丸の石垣と比べると手入れがなされておらず、 残念な感が否めません。また、本丸南東の八代総合病院にも二の丸の石垣が残っているらしいのです が、一周しても模擬か積み直しのようなものしか見当たりませんでした。せっかく九州新幹線が通った のですから、もう少し観光地として整備しても罰はあたらないような気がします。 |
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本丸天守台石垣を望む。 | |
同上。別角度から。 | |
本丸東側の表桝形。 | |
表桝形のようす。 | |
本丸北の裏桝形。 | |
本丸南東辺の石垣。 | |
松井神社東側の北の丸石垣。 | |
二の丸石垣か。八代総合病院の石積み。 |