元城(もと)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 摂津親安か
 遺構  : なし
 交通  : JR予讃線八幡浜駅よりバス、
       「五反田」下車徒歩5分


       <沿革>
           『宇和旧記』によれば、「南方殿」が矢野から五反田元城へ移り居城としたとある。南方殿
          とは、西園寺十五将の1人摂津親安を指す。摂津氏は宮廷貴族の中原氏の傍流で、鎌倉
          幕府4代将軍藤原頼経に近侍した中原師員の孫の親致にはじまる。親致の弟親秀の譲状
          には、一族の親憲に「伊予国矢野保内南方但八幡浜除之」とあり、伊予摂津氏はこの親憲
          の後裔とみられている。親安が移り住む以前から元城があったのかは定かでない。
           天正十二年(1584)、主家の西園寺公広は長宗我部元親の攻撃を受けて降伏したが、
          このときに元城も攻め落とされたとされる。ただし、元城北西の八尺神社には、長宗我部氏
          に討たれた萩森城主宇都宮房綱の未亡人である白姫を、元城主の親安が妻に迎えようと
          したところ、姫は「二夫にまみえず」として母親とともに自害したとする伝説がある。これが
          正しければ、親安は西園寺氏の降伏後も元城主にとどまっていたことになる。
           早ければ長宗我部氏による制圧時に、遅くとも翌天正十三年(1585)の豊臣秀吉による
          四国平定の際に廃城となったものと思われる。


       <手記>
           元城跡は元城団地として造成・開発され、遺構は消滅しています。たしかに、まとまった
          住宅地をつくるには八幡浜は平地が限られていて山を切り崩すしかないのですが、なにも
          地域の歴史に深くかかわる城跡を壊すことはなかろうにと、残念でなりません。
           『日本城郭大系』にはかつての地形と縄張り図が掲載されています。それによると、細く
          伸びる尾根をひな壇状に削平した城で、規模としては小さくはないが控え目かなといった
          感じです。本丸の背後に堀切が1条あったようで、その南側の墓地は残存しています。この
          墓地が曲輪跡とするなら、元城に残る唯一の遺構ということになると思われますが、都合
          により訪ねそびれてしまいました。
           ところで、元城から千丈川を挟んだ北側には、宇都宮房綱の萩森城があります。房綱は
          地蔵ヶ獄城主宇都宮豊綱の弟とされ、豊綱は西園寺氏と敵対関係にありました。親安の
          父実親は、房綱との戦いで討ち死にしたとされています。とすると、摂津氏領のうち保内は
          萩森城によって、少なくとも陸路では分断されていたことになります。ただし、房綱は親安
          と同じ西園寺十五将に数えられ、15人のなかには他にも房綱と同族とみられる白木城主
          宇都宮乗綱の名もあります。この点についてあまり議論の的となっているようすはみられ
          ないのですが、西園寺氏と宇都宮氏の関係について個人的には気になるところです。


 元城団地の立派な石碑。
団地のようす。 


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