柳沢城(やなぎさわ) | |
別称 : 横壁城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 横壁氏か | |
遺構 : 曲輪跡、堀跡 | |
交通 : JR吾妻線長野原草津口駅徒歩40分 | |
<沿革> 築城年代は16世紀後半ごろと推測されているが、定かでない。築城主についても、『中世 城館調査報告書集成』には横壁玄蕃と記されているが、この人物が何者かは不明である。 他にも、羽根尾城主羽尾幸全によって築かれたとする説もある。 永禄六年(1563)、武田信玄の命を受けた真田幸隆が吾妻地方へ侵攻し、吾妻の諸城は 幸隆の支配下に入ったが、このころすでに柳沢城が築かれていたかは定かでない。。天正 十年(1582)に武田氏が滅亡すると、北条氏が吾妻へ進出せんと大戸城を攻め落とした。 幸隆の子昌幸は、丸岩城を湯本・西窪・横谷・鎌原の諸将に交代で守らせ、須賀尾峠から の侵入に備えた。このとき、柳沢城にも丸岩城同様、兵が駐屯していたものと思われる。 天正十二年(1584)、信濃国高井郡の上杉氏家臣須田信正・市川信房が、幸全を援けて 長野原・丸岩両城を三月二十六日に奪取したと伝える書状が、上杉景勝から岩井信能 (『日本城郭大系』には岩井備前守とあるが、備中守の誤りであろう)に宛てて出されている。 長野原・丸岩両城が落とされたのであれば、その間にある柳沢城も落とされたものと考え られる 廃城時期については、不明である。 <手記> 柳沢城は、長野原から須賀尾峠を越えて大戸に至る峠道の中途にあります。山間の小沢 である柳沢を挟むように、北と南の峰の先に曲輪が設けられており、別城一郭というよりは、 2つの城が寄り添って築かれているという方が正しいでしょう。さらに、北側の曲輪群(以下 北城とします)の裏山にも曲輪が続いており、これを山城部とすれば、南側の曲輪群(以下 南城)と併せて大きく3つの部分からなる城であるといえます。 『集成』の縄張り図によれば、北城は方形の区画を基調とし、戦闘よりも居住スペースを 意識しているように感じられます。対して南城は、堀で大きく囲まれており、戦闘および駐屯 用の目的をもっていたと推測されます。 現在、城域内を国道が走っているため、遺構の確認はいささか困難となっています。さらに 碑や案内などは一切ないため、ここが城跡であることを実感することすらなかなかできません。 よくよく注意してみると、南城には曲輪跡の削平地と堀が見受けられ、北城には十二山神社 裏手に空堀跡とみられる沢への堀底道があります。この堀は北城の南東端のものとみられ、 北東端には三体堂があります。 柳沢城および丸岩城については、その形状や立地が特異であることから、縄張りや使用 目的についてはさまざまな推測がされているようです。ただ、遠目からでも奇岩として目立つ 丸岩城についてはよく語られるものの、柳沢城については見過ごされがちなように思います。 私は、この両城は2つでセットの関係にあったと考えています。丸岩城は、見た目通りの山で 人が動き回るスペースがほとんどなく、駐屯できる兵はかなり限られていたと思われます。 おそらく丸岩城の兵力だけでは、須賀尾峠を完全に封鎖することはできなかったのでしょう。 そこで柳沢城に目を転ずると、柳沢城の南城は籠って戦うというよりは、兵を駐屯させておく 区画のように映ります。したがって、丸岩城には見張りおよび一時凌ぎの兵が留まり、主力 と大将は柳沢城に駐屯していたとみることができます。そして、丸岩城駐留の武将4人のうち 3人は柳沢城にあり、険しくてろくに建物も立たない丸岩には、交代制で残る1人が在城して いたと考えることができます。あくまで個人的推測で確証はありませんが。 (追記)後日「儀一の城館旅」の管理人儀一さまのお誘いで、柳沢城の山城部にチャレンジ する機会をいただきました。道なき山を儀一さんの先導でよじ登り、尾根筋に『集成』に記載 のある曲輪跡と思われる平場がいくつか見受けられましたが、遺構であるかは、はっきりしま せんでした。唯一、ほぼ間違いなく人工の曲輪であろうと思しき箇所が、山頂の1段下に認め られましたが、この場所は『集成』の縄張り図には城外として描かれていないところでした。 ここが曲輪であれば、山頂も城内に含まれていることは確実であり、資料にみられなかった 遺構の発見に、2人でほくそ笑んでいました。 |
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堀跡と思われる十二山神社裏手の堀底道。 | |
北城北東端の三体堂。 | |
南城の切岸。 左側の犬走りのようなテラスは、 堀となって右手奥に続いています。 |
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南城の山側付け根の堀。 直角に折れて左手奥へと続いています。 |
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山城部の平場。 人工のものかは不明。 |
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山城部山頂。 ほぼ自然地形で、曲輪が形成されていたかは不明。 |
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山頂から曲輪跡と思われる1段下の削平地を望む。 |