長野原城(ながのはら)
 別称  : 箱岩城
 分類  : 山城
 築城者: 羽尾氏
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、虎口跡、井戸跡
 交通  : JR吾妻線長野原草津口駅徒歩25分


       <沿革>
           滋野氏流海野氏一族の羽尾氏によって築かれたとみられているが、詳しい築城年代は不明で
          ある。羽尾幸全は、同族の鎌原幸重と所領争いを起こし、岩櫃城主斎藤憲広と結んで鎌原氏を
          逐った。鎌原氏は武田信玄を頼り、永禄五年(1562)八月に、信玄は真田幸隆に斎藤氏攻略を
          命じた。斎藤氏は武田氏に降り、長野原城には幸隆の弟常田隆永が入れられた。
           翌永禄六年(1563)九月、憲広は白井長尾氏の援軍を得て、幸全も従えて長野原城の奪還を
          図った。隆永とその子俊綱(同一人物とも)は打って出て城下で合戦に及んだものの、討ち死に
          した(隆永は生き延びたとも)(長野原合戦)。
           幸全は旧領を回復したが、まもなく信玄の命により再び真田勢が吾妻へ侵攻した。同年十月、
          岩櫃城は幸全の弟海野幸光・輝幸兄弟や憲広の甥則実の内応により落城し、幸全は上杉氏を
          頼って落ち延びた。長野原城は、真田家臣湯本善太夫に与えられた。善太夫は、天正三年(15
          75)の長篠の戦いで致命傷を負い、跡を甥の三郎右衛門が継いだとされる。
           天正十二年(1584)に上杉景勝から岩井信能(『日本城郭大系』には「岩井備前守」とあるが、
          備中守の誤りであろう)に宛てた書状に、同年三月二十六日に信濃国高井郡の須田信正・市川
          信房が、羽尾源六郎幸全を援けて長野原・丸岩両城を落としたことが記されている。翌十三年
          (1585)、昌幸は、徳川家康が真田氏を介さずに取り決めた沼田城の北条氏への譲渡を拒絶し、
          上杉氏と結んだ。上杉氏に奪われた吾妻領は、このとき昌幸に返還されたものと推測される。
           その後の長野原城については不明である。

       <手記>
           長野原城は、吾妻川と白砂川の合流点に細長く伸びた丘陵に築かれた城です。最初、『中世
          城館調査報告書集成』所収の縄張り図にしたがって諏訪神社裏手から登ろうとしたのですが、
          八ツ場ダム建設に伴う線路や道路の建設現場に阻まれ、行きつくことができませんでした。諏訪
          神社前は、上記の長野原合戦の古戦場とされ、境内に石碑が建てられています。
           後日、「儀一の城館旅」管理人の儀一さまとご一緒させていただくことになり、儀一さんの入念
          な下調べにより、かみつけ信用組合長野原支店の向かいに、無事登城口を見つけることができ
          ました。
           この道を上ると、別称の箱岩城のもととなっている箱岩の下に着きます。その名の通り四角く
          せり出した巨岩は、長野原城のシンボルともいえます。箱岩の名は、あるいは丸岩城との対比
          でつけられたものかもしれません。さらに上ると、腰曲輪や井戸跡を経て、尾根筋にでます。ここ
          から東に行くと、箱岩の出丸に出ます。さらに東に行くと、三方を急崖に囲まれた細長い曲輪に
          出て行き止まりとなります。『集成』の縄張り図では、さらに東の丘陵先端までびっしりと曲輪が
          続いているように描かれています。しかし、この行き止まりの曲輪は周囲を鉄柵で囲まれており、
          前述のとおり麓の諏訪神社からの道は塞がれているため、確かめることができませんでした。
          個人的には、この突き当たりの曲輪はその急崖で東側からは遮断されており、羽尾氏や湯本氏
          の規模を考えると、それより東にまで城域を広げる必要はないようにも感じられます。
           さて、箱岩出丸から西へ向かうと、本丸の手前に1つ小さなピークがあります。秋葉社跡の石碑
          が立っており、『日本城郭大系』では秋葉山出丸とされています。秋葉社がいつから祀られていた
          のかは不明ですが、石碑のあるところは櫓台状になっています。この出丸は、西側に武者溜りを
          もち、さらにその外側に堀切を穿つという、堅固で凝ったつくりとなっています。おそらく、真田氏
          の手によるものと推測されます。
           秋葉山出丸の西に本丸域があります。本丸にも櫓台状の小区画があり、そこに城址碑が建て
          られています。その下には、段築状にやや広い曲輪が連なっています。こうした、堀を伴わない
          のっぺりした平場が段築状に続くという構造は、吾妻地方の城にしばしばみられる特徴と思われ、
          長野原城内でも古い縄張りを残す箇所であると考えられます。この果樹畑のような段々の本城
          部分は、「大堀切」と呼ばれる堀切および竪堀で南北に分けられています。この「大堀切」は、
          たしかに堀そのものが少ない長野原城内においては最大のものといえるでしょうが、これまで私
          が見てきたたの大堀切と呼ばれる堀と比べると、明らかに見劣りします。これを「大」と呼ぶなら、
          もう何も言うまいという感じです。『大系』では、この堀をして本城の「中央を掘り切った一城別郭」
          と奇妙なことをいっています。『大系』の群馬編担当者は、一城別郭の意味を理解してらっしゃら
          ないようで残念です。
           長野原城最大の見どころ(だと私が思っているところ)は、本丸域の西麓にあります。ここは城
          の大手になるのですが、明らかに真田氏の手によるものとみられるシステマティックな構造をして
          います。すなわち、大手の虎口から入った侵入者は、三日月状の堀の底を進みます。この堀の
          両側は曲輪になっており、その片割れである大手曲輪の付け根にある第二の虎口を超えるまで、
          両曲輪からの攻撃に晒されます。大手曲輪の反対側の曲輪は、堀と土塁に囲まれて半独立して
          おり、笹曲輪ないし捨曲輪といった感じになっています。
           総合してみると、上記の通り長野原城には、部分的に高度な技術による改修が認められます。
          この改修は、長野原合戦前後になされたと考えるには少々早すぎるように思います。したがって、
          天正十年(1582)に真田氏と北条氏の間で緊張が高まって以降の作事ではないかと、個人的に
          推測しています。

           
 長野原城址遠望。
箱岩を見上げる。 
 本丸の城址碑。
本丸下の削平地。 
 大堀切。
大手の三日月堀。 
右手が大手曲輪。左手が半独立の曲輪。 
 半独立の曲輪の土塁を望む。
大手虎口跡。 
 大手曲輪の土塁。
大手曲輪の虎口を望む(画面左手)。 
 秋葉山出丸。
秋葉山出丸の武者溜り。 
 秋葉山出丸の堀切。
箱岩出丸手前のピークの曲輪。 
 箱岩出丸。
東端行き止まりの曲輪。 
 井戸跡。


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