丸岩城(まるいわ)
 別称  : 丸屋城
 分類  : 山城
 築城者: 真田昌幸か
 遺構  : 曲輪跡、土塁
 交通  : JR吾妻線長野原草津口駅よりタクシー利用


       <沿革>
           いつごろ築かれたのかは定かでない。天正十年(1582)、真田昌幸が湯本・西窪・横谷・鎌原
          の4将を丸岩城に交代で駐留させたと『加沢記』にあるのが、初出とされる。同年の武田氏滅亡
          に乗じて、北条氏が大戸城を奪っており、大戸城から長野原へ通じる草津街道の要衝須賀尾峠
          を押さえる丸岩城は、にわかに最前線の城となった。あるいは、北条氏の大戸城攻略に際して
          築かれた可能性も高いと思われるが、詳細は不明である。
           天正十二年(1584)に上杉景勝から岩井信能(『日本城郭大系』には「岩井備前守」とあるが、
          備中守の誤りであろう)に宛てた書状に、同年三月二十六日に信濃国高井郡の須田信正・市川
          信房が、羽尾源六郎幸全を援けて長野原・丸岩両城を落としたことが記されている。羽尾氏は、
          周辺の旧領主であったが、真田氏の吾妻侵攻に際して城を逐われ、上杉氏を頼っていた。昌幸
          は、このとき徳川氏に従って上杉氏と対立し、徳川氏は北条氏と和議を結んでいた。
           なお、池波正太郎の『真田太平記』には、天正十一年(1583)に丸岩城の源六郎が真田氏の
          中棚の砦を攻め、逆に真田の別動隊が丸岩城を急襲するという描写がある。このような戦いが
          実際にあったのかは不明だが、少なくとも天正十一年の時点では、まだ丸岩城は羽尾氏の手に
          渡っていない。
           天正十三年(1585)、昌幸は、徳川家康が真田氏を介さずに取り決めた沼田城の北条氏への
          譲渡を拒絶し、上杉氏と結んだ。上杉氏に奪われた吾妻領は、このとき昌幸に返還されたもの
          と推測される。その後も、同十八年(1590)の小田原の役まで真田氏と北条氏の対立は続いた。
          遅くとも、北条氏の滅亡までには廃城となったものと考えられるが、正確な時期は不明である。

       <手記>
           八ツ場ダム予定地に完成した不動大橋や、道の駅八ツ場ふるさと館から草津方面を望むと、
          カップマフィンのような、嫌でも目につく岩山があります。これが丸岩です。まさかこんな山に城跡
          が!?というくらいの奇岩奇山です。丸岩城には、昔攻められたときに城主と敵が取っ組みあい、
          両方とも崖から谷底へ落ちて死に、その場所から紅白の花をつける桃の木が育ったという伝説も
          あります。
           ですが、いざ登城口のある須賀尾峠側とは尾根続きになっており、わりとフラットに主郭部まで
          行くことができます。「儀一の城館旅」の儀一さまとご一緒させていただいたのですが、2人して
          拍子抜けしてしまいました。
           上の地図でも分かる尾根の付け根が大手となります。ここから、それほど急でもない尾根道を
          登って行くのですが、その西側には土塁が付属して続いています。『日本城郭大系』では、これ
          を風除けの土塁と断定し、「これなしには強風時の通行は不可能」とまで言い切っています。が、
          下の写真を見ていただければ分かる通り、土塁と反対側の斜面はかなり緩やかで、風に煽られ
          て倒れたとしても、崖下へ真っ逆さまということにはならないと思われます。丸岩城の仮想敵は、
          須賀尾峠を越えて来る北条軍ですから、草津街道が麓を通過する西側を守るための土塁と素直
          に考えた方が良いように思います。
           尾根を登りきると、いきなり主郭に着きます。主郭は決して広くありませんが、城内で唯一土塁
          で囲まれた曲輪です。こんな形の山ですから、本丸以外に攻められることをあまり想定していな
          かったのかもしれません。城址碑等はありませんが、丸岩山頂を示すプレートが木にかけられて
          います。
           主郭の東西に、付属の曲輪が続いています。東には、尾根筋に沿って細長い曲輪が2段あり
          ます。曲輪といってもほとんど自然地形で、2つあるというのも、間に1つ小さなピークがあるだけ
          です。この尾根の北側1段下に、明らかな腰曲輪があります。ただ、絶壁のこちら側から攻められ
          る可能性はほぼゼロですので、戦うための曲輪というよりは、兵士の駐留スペースとみるべきで
          しょう。
           本丸の西には、やや下って広めの曲輪があります。この曲輪は、先端に土塁状の盛り上がり
          があります。土塁としてはやや中途半端な感があり、あるいはこれこそ、狼煙の風除けの土盛り
          なのではないかとも考えられます。
           総合的な感想として、丸岩城は北条氏の進出に対する急ごしらえの城だったのではないかと
          考えています。最大の弱点である尾根筋には堀切が1つも設けられず、主郭以外の曲輪は造作
          が簡易です。どうも、本気でこの城で敵を食い止めようという気概が感じられません。そもそも、
          兵の駐屯スペースがほとんどなく、ここに駐留しろといわれても、峠を監視するくらいしかできそう
          にありません。
           丸岩から草津街道を下ったところにある柳沢城には、逆に館を置くにしても、少々広すぎる曲輪
          があります。個人的な考察としては、天正十年の北条氏の大戸城攻略を受け、昌幸は須賀尾峠
          の監視として丸岩城をこしらえ、また柳沢城を拡張して、将と兵を常駐させたのではないかとみて
          います。4人の将が交代で丸岩城に入ったというのも、残りの3人が柳沢城にあって、緊急事態に
          対処するようになっていたのではないかと、考えています。

           
 不動大橋から丸岩を望む。
丸岩山頂。 
 本丸の土塁。
本丸のようす。 
分かりづらいですが、土塁で囲繞されています。 
 本丸の東に延びる尾根筋の曲輪。
尾根筋の2つの曲輪の間のピーク。 
 東の尾根東端のようす。
東の尾根1段下の曲輪。 
 本丸西1段下の曲輪を望む。
本丸西1段下の曲輪のようす。 
 本丸へ至る尾根筋の土塁。


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