大森城(おおもり)
 別称  : 岩渕城
 分類  : 山城
 築城者: 小野寺道高
 遺構  : 削平地、土塁
 交通  : JR横手駅からバスに乗り、「大森公園前」
      下車徒歩10分


       <沿革>
           文明年間(1469〜87)に小野寺長門守道高が岩渕城として築いたのがはじまりと伝わる。
          道高は小野寺泰道の四男で稙道の弟とされるが、稙道の生年が長享元年(1487)とされる
          一方、泰道は文明九年(1477)没となっていることから、三者を親子兄弟とするには様々な
          矛盾が生じる。
           天正(1573〜92)の半ばには小野寺義道の弟・五郎康道が城主となり、大森氏を称した。
          この間に大森城と改称されたとみられ、道高も大森氏を名乗ったともいわれるが、その経緯
          については明らかでない。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、義道は宿敵の最上氏から雄勝郡を取り戻すため
          西軍に転じたが、本戦で東軍が圧勝したため敵中に孤立した。同年秋に最上・秋田・由利ら
          1万の連合軍が大森城に攻め寄せると、康道はわずか800ほどの手勢で籠城・迎撃した。
           最上勢は三方から攻め上がったが、康道が陣頭に立って奮闘したほか、女たちも石礫を
          浴びせて応戦するなど必死に応戦した。また、康道の側室おかねが百姓の女房に変装して
          囲みを抜け、義道に援軍を求めたが、帰路で敵軍に捕えられて拷問のうえ斬られたとも伝え
          られる(『奥羽永慶軍記』)。やがて、末弟の吉田城主吉田陳道が救援に駆けつけ、次いで
          義道の援軍も到着した。
           一進一退の攻防はその後も続いたが、ついに大森城は陥落することなく、徳川家康の停戦
          命令が伝えられた。しかし、翌慶長六年(1601)に小野寺家は改易となり、康道は兄・義道と
          共に津和野へ流罪となった。
           戦後、平鹿郡は最上義光に与えられ、最上家臣・伊良子将監が大森城主となった。しかし、
          翌慶長七年(1602)に佐竹家が羽後へ移封されると、最上家との間で所領交換が実施され、
          平鹿・雄勝両郡は久保田藩領となった。これにより、大森城は廃城となったと推測される。


       <手記>
           大森城は小野寺領の北西端付近に位置し、戸沢氏や安東氏、由利党などと対峙する要衝
          といえます。現在は大森公園となっていますが、2018年までは北側斜面にスキー場まで運営
          されていたそうで、全山にわたって造成の手が入っている様子です。
           駐車場から山頂へ向かって登っていくと、数多くの段々が巡っており、おそらく帯曲輪群の
          跡と思われます。頂上の主郭には大森神社が祀られていますが、削平地のほかに目立った
          遺構は見られません。本殿裏に上述の女性たちが使ったという「女礫跡」という標識も建って
          いるものの、どれを指すのかは分かりませんでした。
           女礫跡からさらに林を分け入ると、明瞭な切岸や腰曲輪があり、あるいは虎口跡ともとれる
          地形も認められます。しかしながら、やはり公園化によって全体像の把握が難しくなっており、
          小野寺氏の最期の華ともいえる城跡ながら、いささか残念な保存状況となっていました。

           
 大森公園駐車場の説明板。
帯曲輪群と見られる段々。 
 同上。
帯曲輪の一つか。 
 本丸跡のようす。
本丸跡標柱。 
 本丸跡からの眺望。
菖蒲池。 
当時のものではなさそうです。 
 大森神社。
女礫跡の標柱。 
 本丸北西側の帯曲輪。
同じく腰曲輪か。 
 腰曲輪および切岸と思われる地形。
虎口跡か。 
 柏台の標柱。


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