与倉前館(よくらまえ) | |
別称 : なし | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 小林政景か | |
遺構 : なし | |
交通 : 函館市電「湯の川」電停よりバス 「根崎保育園」バス停下車 |
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<沿革> 志苔館の支砦で、志苔館主小林良景の弟政景が居城したとされる。築城時期については 定かでなく、志苔館が攻め落とされて良景が討ち死にしたとされる長禄元年(1457)のコシャ マインの戦いには登場していない。 『新羅之記録』によれば、永正九年(1512)のショヤ・コウジ兄弟の戦いに際して、志苔館・ 与倉前館・宇須岸館の3館が攻め落とされ、それぞれの館主である小林弥太郎良定、小林 小二郎季景、河野弥二郎左衛門季通の3名も敗死した。良定は良景の子、季景は政景の子 とされる。 ショヤ・コウジ兄弟の戦いについては、上ノ国守護蠣崎光広が蝦夷の実権を握る下剋上劇 であり、アイヌが攻め滅ぼしたとされるものには、実際には光広の策謀によるものが含まれて いるとする説も有力視されている。季景は、松前覃部館の館主今井季友の養子となって同氏 の跡を継いだともいわれており、これが正しければ、基本的には松前に居住していたものと 考えられる。 戦後、与倉前館はそのまま廃館となったと考えられているが、詳細は不明である。 <手記> 与倉前館は、志苔館と同じ並びの海岸段丘上にあったとされています。根崎保育園周辺が 館跡とされていますが、必ずしも確定されているわけではないようです。遺構は見当たらず、 海岸の崖上という要害性以外にとりたてて目につくようなものもありません。 このあたりから志苔の東あたりまでは、中世には昆布の産地として栄えていたようで、段丘 上の平地よりも、現在と同じく崖下の海岸線沿いに人家が建ち並んでいたそうです。蝦夷地 はかつては米のとれない無石の地でしたから、交易の糧となる昆布の漁場を押さえることが、 もっとも重要だったということなのだろうと拝察されます。 |
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与倉前館跡(根崎保育園)。 |