志苔館(しのり)
 別称  : 志濃里館、志海苔館
 分類  : 平山城
 築城者: 小林氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀、虎口
 交通  : 函館市電「湯の川」電停よりバス
       「志海苔」バス停下車


       <沿革>
           今にいう「道南十二館」の1つで、小林氏の館とされる。小林氏は、一説には上野国の出
          で、小林次郎重弘が蝦夷に渡ったことにはじまるとされる。上野小林氏として知られるもの
          には、坂東八平氏の1つ秩父氏から分かれたものがあり、『吾妻鏡』には河越重頼の弟と
          して小林次郎重弘の名がみられる。ただし、この重弘とその孫とされる良景(後述)の年代
          差が大きすぎるため、実際のところ蝦夷小林氏の出自は不明である。
           『新羅之記録』によれば、重弘の孫とされる太郎左衛門良景の代の康正二年(1456)、
          志苔館城下の鍛冶屋で、和人の店主とアイヌ人の客の間で注文した刃物の品質と価格を
          めぐって口論となり、店主が客を刺殺する事件が起きた。この事件を契機として、アイヌは
          コシャマインを旗頭として蜂起し、翌長禄元年(1458)にコシャマインの戦いが勃発した。
          五月十四日には、アイヌ勢によって志苔館が攻め落とされた。一般には、このとき良景は
          討ち死にしたと流布されているが、『記録』では良景の生死については触れられていない。
          戦いは、同年中に上ノ国洲崎館主武田信広の活躍によって和人側の勝利に終わった。
           永正九年(1512)、再び蜂起したアイヌによってショヤ・コウジ兄弟の戦いが勃発すると、
          志苔館、与倉前館宇須岸館の3つが立て続けに攻め落とされた。それぞれの館主である
          小林弥太郎良定、小林小二郎季景、河野弥二郎右衛門季通の3名も敗死した。良定は、
          良景の子とされる。この戦いも、信広の子蠣崎光広の活躍によって鎮定された。同戦いに
          ついては、ショヤ・コウジ兄弟が落としたとされる松前大館を接収した蠣崎氏が、結果的に
          蝦夷地で最大の勢力にのし上がり、逆に同氏以外の有力和人領主が軒並み没落している
          ことから、実際には光広の下剋上劇だったのではないかとする説も有力視されている。なか
          には、『記録』にある上記3館主がなべて前館主の子で「皆令生害」と紋切り型に扱われて
          いることから、志苔館の存続と良定の実在を否定する説もある。
           この後の志苔館については不明である。『松前家臣小林家履歴書』によれば、永正十一
          年(1514)に良定の子とされる良治が蠣崎氏に臣従し、松前に移ったとされる。したがって、
          このときまでには、志苔館は廃されていたものと考えられている。


       <手記>
           志苔館は、前は海、両サイドを谷側に洗われた台地の角に位置しています。すぐ北側に
          函館空港がありますが、館は主だった部分はほぼ完全に残っており、国史跡に指定されて
          います。ただ、アクセスは良いとはいえず、とくに空港の建物は滑走路を挟んだ向こう側に
          あるので、空港からバスやタクシーでとなると、逆に手間がかかりそうです。
           現在、志苔館は詳細な発掘調査を終え、史跡公園の手本のようにきれいに整備されて
          います。北西隅から入るようになっており、ここに城址碑や説明板、そして小林父子および
          コシャマインの戦いで命を落とした和人・アイヌ人の霊を祀った神社があります。
           大手は西に開いていて、二重の空堀およびその外側の土塁によって固められています。
          外側の土塁は、城外からみると2段になっていて、犬走り状のテラスを備えています。発掘
          調査の結果、土塁は最初はこのテラスぐらいの高さで上部に柵が設けられていたそうです。
          空堀も、城内側のものは後に薬研堀から箱薬研に改められたり、大手に木橋が架けられて
          いたものを土橋にするなどの改修が加えられていたそうです。
           郭内にも、発掘の成果が説明板と地表復元により示されています。それによると、志苔館
          の存続期間は14世紀末から15世紀後半までと推定されています。建物については大きく
          3つの時期に分けられるそうで、15世紀初頭までの第T期と15世紀中ごろから同後半まで
          の第U期では、建物の配置がだいぶ異なっています。コシャマインの戦いで一度焼失した
          か荒廃し、戦後に再建されたとすれば辻褄が合うので興味深い結果といえます。おそらく、
          前述の大手の備えについても、その時に改められたものと推測されます。
           第V期は16世紀中ごろ以降とされ、志苔館が史料から姿を消してからのものとなります。
          この期の建物は、広い郭内にぽつんと小さなものが1棟あるだけだったようで、居館として
          の機能は失っていたようです。ただ、それまでと異なって礎石が用いられていることから、
          何らか中長期的に使用する意図や目的があったのではないかと拝察されます。あるいは、
          蠣崎氏の支砦としてしばらくは現役だったのかもしれません。
           館の周囲は、大手空堀の1重目とつながっていたと思われる空堀で囲繞されています。
          一応、一部踏み跡程度の道ですが、一周歩いてまわることができます。
           志苔(志海苔)一帯を俯瞰して感じるのは、中世の小領主の城館とはいえ、あまりにも
          発展性に乏しい土地に思えてならないという点です。平地もなければ船舶の停泊に適して
          いるとも思えず、西麓を流れる志海苔川は長さはそこそこありますが、とくに特徴のある川
          にはみえません。東西に少し離れた汐泊川や松倉川流域に選地した方が、視界も土地も
          開けていて有利なような気がします。ただ、これは農地開発を前提とした本州以南の城館
          のセオリーであって、米のとれない無石の地とされてきた蝦夷においては、平地の多寡は
          そこまでクリティカルな問題ではなかったようです。志苔周辺の海岸は、当時有数の昆布
          の漁場で、これを中央に輸出することで経済が成り立っていたそうです。同じ海岸段丘上に
          与倉前館、弥右衛門川館と横並びに配置されている点からも、この海岸を押さえることが
          重要であったと拝察されます。また、志苔館南東麓からは38万枚強にも及ぶ古銭の入った
          甕が発掘されており、1か所から見つかった量としては国内最大級として重要文化財に指定
          されています。
           お時間があれば、ぜひ湯の川温泉から志苔館まで途中の城館に立ち寄りながら、何とも
          北海道らしい趣の続く海岸下の旧街道を歩かれると、より深くこの館の意義を感じ取れる
          ものと思います。

           
 北西隅の城址碑と説明板。
西端外郭の土塁。 
 大手の二重空堀。
大手虎口からの眺望。 
二重空堀とその先に外郭の土塁。 
海の向こうにかすかに見える山は函館山。 
 大手虎口から見た城内。
 手前の杭列は第T期の木柵跡。
反対側から見た城内。 
 南辺の土塁。
東辺の土塁と堀跡。 
堀跡は元は小川か。 
 北東端のようす。
北辺の堀と土塁。 


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