宇須岸館(うすけし)
 別称  : 箱館、河野氏館、宇須岸河野館
 分類  : 平山城
 築城者: 河野政通
 遺構  : なし
 交通  : 函館市電「末広町」電停徒歩5分


       <沿革>
           享徳三年(1454)に、安東師季(政季)に従って武田信広らとともに蝦夷に渡ったと
          される河野政通によって築かれたといわれる。政通は、伊予河野氏の一族とされるが、
          詳しい系譜は不明である。陸奥国江刺郡には、承久の乱で宮方に属したために流罪
          となった河野通信の孫通重が土着したとされ、政通はこちらの後裔であるとする向き
          もある。
           長禄元年(1457)のコシャマインの戦いによって、いわゆる道南十二館のうち宇須岸
          館を含む10館までがアイヌ勢によって攻め落とされた。政通は討ち死にしたとも捕えら
          れたとも伝えられ、消息は定かでない。
           永正九年(1512)、再び蜂起したアイヌによってショヤ・コウジ兄弟の戦いが勃発し、
          宇須岸館、志苔館与倉前館の3つが立て続けに攻め落とされた。『新羅之記録』に
          よれば、それぞれの館主である河野季通、小林良定、小林季景の3名も敗死した。
          季通は政通の子とされ、政通生存説によれば、季通は娘と父を逃した後に自害した。
          季通の娘は松前の蠣崎季広を頼り、その正室となって初代松前藩主慶広を産んだ。
          その後の宇須岸館については、自然廃館状態であったものと推測されるが、詳細は
          不明である。
           寛政十一年(1799)、ロシアの南下に対して、江戸幕府は箱館を含む蝦夷の大半
          を松前藩から上知した。享和二年(1802)、蝦夷支配の幕府代官として箱館奉行が
          置かれ、宇須岸館跡に箱館奉行所が建設された。それまでは、同地には箱館八幡
          宮があったとされる。文化四年(1807)には全蝦夷地が上知され、箱館奉行は松前
          奉行と改称して奉行所も松前に移った。
           安政二年(1855)、日米和親条約によって箱館が開港したことを受け、蝦夷の大半
          が再び幕府直轄領となった。翌三年(1856)、箱館奉行が復活し、奉行所も宇須岸館
          跡に置かれた。しかし、元治元年(1864)に五稜郭が築かれ、奉行所の機能もそちら
          に移転した。
           ちなみに、函館の旧表記である箱館は、宇須岸館が土塁と堀を四方に巡らした方形
          館であったことにちなむとされる。また、「宇須岸(ウスケシ)」については、アイヌ語の
          「ウショロケシ(湾の端の意)」によるものとされる。


       <手記>
           宇須岸館跡とされる箱館奉行所跡は、現在元町公園となっています。公園内に、
          奉行所跡の標柱が、公園の東側入り口付近に宇須岸館跡の説明板が設置されて
          います。また、公園南東隅の四つ辻にあるソフトクリームやお土産の商店にも、館に
          ついて書かれた銘板が掲げられています。
           遺構らしきものはとくになく、立地から往時を偲ぶのみです。公園からは函館湾が
          一望できます。蝦夷地はもともと米のとれない無石の地とされていましたから、志苔
          一帯の名産品である昆布を、宇須岸館前の港から輸出するという交易ルートが重視
          されていたのかな、と直感的に推測されます。

           
 宇須岸館跡(元町公園)。
説明板。 
 箱館奉行所跡標柱。
函館湾方面を見下ろす。 


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