吉田郡山城(よしだこおりやま)
 別称  : 郡山城
 分類  : 山城
 築城者: 毛利元就
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口
 交通  : JR可部線可部駅からバスに乗り、
      「安芸高田市役所前」下車徒歩5分


       <沿革>
           安芸毛利氏累代の居城である郡山城は、元々は郡山の一支峰に築かれていたが、毛利元就に
          よって全山規模の大城郭に拡張された。その時期については諸説あり判然としていないが、天文
          九年(1540)の郡山合戦(吉田郡山城の戦い)時点では未改修だったとみられている。同二十二年
          (1553)には、元就の嫡男・隆元の正室である内藤興盛の女が拡張部分にある尾崎丸で幸鶴丸
          (輝元)を出産し、当人も尾崎局と呼ばれることから、このときまでにはある程度の改修工事が完了
          していたものと推測される。隆元自身、拡張当初は旧本城に居住したが、本丸に住む元就との連絡
          が不便だったため、尾崎丸へ移ったといわれる。
           輝元の代の天正十二年(1584)、吉田郡山城のさらなる改修と城下の整備が始められた。しかし、
          豊臣(羽柴)秀吉に降った毛利氏は天正十七年(1589)から広島城の築城に着手し、同十九年(15
          91)に完成すると、新たな居城と定められた。郡山城はこのとき廃されたともいわれるが、その後の
          扱いについては明らかでない。遅くとも、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより毛利家が安芸を
          失った際に廃城となったと考えられる。


       <手記>
           中国地方の覇者・毛利氏の居城として知られる郡山城は、安芸高田市街の真裏に聳えていること
          もあり、見学ルートもきちんと整備されています。私が訪れた後に毛利元就の銅像が除幕されるなど、
          観光名所としても注目されているようです。
           比高約200mの郡山のほぼ全山を城域に組み入れた城はとにかく巨大で、すべての遺構を拝もう
          と思ったら3日くらいは必要ではないでしょうか。また本丸以下、主に城下町側に石垣が設けられて
          いる一方、堀切が尾崎丸と北尾根の羽子の丸にしかないなど、縄張りは単調である点が特徴として
          挙げられます。羽子の丸は城内でもとくに独立性が高く、元就による拡張初期か、あるいはそれ以前
          から出城ないし出丸として存在していたものと推測されます。
           『陰徳太平記』等によれば、郡山合戦に際して尼子勢ははじめ羽子の丸の北に向かい合う甲山に
          陣取ろうとしたところ、元就の奸計によって青光井山に変更したとされています。しかし、甲山は郡山
          山頂は指呼の間に見下ろすことはできても、旧本城はその陰になって見えません。したがって、合戦
          の時点ではまだ全山拡張が成されていなかったのであれば、尼子軍が甲山に陣取るメリットはなく、
          この逸話はおよそ創作であるとみるべきでしょう。
           他に郡山城の特徴として印象に残っているのが、城内に寺院跡が多いという点です。元就の墓所
          のある洞春寺や隆元菩提寺の常栄寺、本丸近くには満願寺や妙寿寺と、これほどの寺院が城内に
          組み込まれている例は珍しいでしょう。
           もう1つ、地図で見て実際に訪れて感じたのは、吉田が中国一円を治める大大名の居城としては、
          あまりにも山奥過ぎるという点です。城下を俯瞰しても発展性には乏しく、交通の要地というわけでも
          ありません。安芸の有力国人程度であれば問題ないとしても、中国から九州・四国・畿内へと勢力を
          広げる気があったのであれば、どんなに遅くても尼子氏を滅ぼした時点で山陽道沿いのいずれかの
          適地へ居城を移転するべきだったでしょう。
           近年では、元就亡き後の外政を担った小早川隆景について、畿内への出兵の機会を逸したと指摘
          されています。他方では吉川元春が強硬に反対したにも関わらず、面従腹背の宇喜多直家と結んで
          毛利氏に忠実だった三村元親の離反を招き、さらには結局直家にも裏切られるなど、熟慮の名将と
          もてはやされる隆景にも失策が多く見られるように感じます。このあたりの対外感覚が、吉田郡山城
          から出られなかった毛利氏の限界を露呈しているように、私には思われてなりません。

 南東から吉田郡山城跡を望む。
南麓から郡山を見上げる。 
 尾崎丸。
尾崎丸背後の土塁。 
 尾崎丸背後の堀と土塁。
尾崎丸脇の腰曲輪。 
 尾崎丸付近から城下を俯瞰。
 右手の山が尼子軍の陣所となった青山。
満願寺跡。 
 勢溜の壇の切岸。
勢溜の壇。
 勢溜の壇の石垣。
勢溜の壇の土塁。 
 勢溜の壇背後の堀切状地形。
本丸域下の御蔵屋敷跡。 
 二の丸跡。
本丸跡と最高所の櫓台状土塁。 
 櫓台状土塁の頂部。
三の丸から二の丸・本丸を望む。 
 三の丸の区画土塁。
三の丸の石塁跡。 
 厩の壇跡。
厩の壇下の馬場跡尾根の腰曲輪群。 
 釜屋の壇。
釜屋の壇下の腰曲輪。 
 羽子の丸背後の堀切。
羽子の丸中心部。 
 羽子の丸の腰曲輪。
姫の丸跡。 
 姫の丸下の腰曲輪。
釣井の壇跡。 
 釣井の壇の井戸跡。
釣井の壇の石塁跡。 
 毛利元就墓所(洞春寺跡)。
谷筋の鍛冶炉跡。 
 常栄寺跡。
大通院谷の薬研堀。 
 御里屋敷跡。
推定内堀跡。 


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