夕日ヶ丘城(ゆうひがおか) | |
別称 : 向山城、夕日ヶ岡城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 馬淵氏か | |
遺構 : 櫓台、曲輪跡、土塁、堀 | |
交通 : JR東海道本線篠原駅徒歩20分 | |
<沿革> 六角佐々木氏重臣馬淵氏の城と伝わる。馬淵氏は、佐々木定綱の五男定広にはじまるが、 夕日ヶ丘城がいつごろ築かれたのかは明らかでない。馬淵氏は、南北朝時代には野洲郡の 郡奉行に任じられており、古くから篠原周辺に勢力をもっていた。夕日ヶ丘の名は、南東2q ほどのところにある田中山城の別称入日ヶ岡城に関連したものとも推測される。田中山城は 文明年間(1469〜87)の築城とされているため、夕日ヶ丘城もその前後に築かれたものとも 推測される。 山麓の向山神社は、永正四年(1507)に馬淵山城守宗綱によって再建されたと伝わるため、 このころまでには、城も築かれていたのではないかと考えられる。宗綱の娘は、蒲生定秀に 嫁いだとされる。宗綱は、永禄十一年(1568)の信長上洛戦で戦死したとされているが、定秀 の生年や向山神社の再建年を考えると、不可能ではないが相当な高齢で戦に臨んだことに なる。 宗綱とその子兵部少輔建綱は、永禄十年(1567)の「六角氏式目」に連署している。式目が 制定されるきっかけとなった同六年(1563)の観音寺騒動では、元家臣の在地領主永原氏が 六角氏に抵抗し、「篠原上の城」と同「下の城」に立て籠もった。六角義賢は、永原氏制圧の ために星ヶ崎城へ入ったが、このときの馬淵氏の動向については詳らかでない。一説には、 馬淵父子も離反したともいわれるが、いずれの側にあっても、夕日ヶ丘城は前線の城の1つと なったものと推測される。 信長上洛後の夕日ヶ丘城および馬淵氏については詳らかでない。『日本城郭大系』には、 元亀元年(1570)に馬淵甲斐守秀信が弥勒寺城や岩倉城に拠って信長に抵抗したものの、 敗れて滅ぼされたとある。このときまで夕日ヶ丘城が存続していたのか、していたとして城で 戦闘があったのかなど、詳細は不明である。 <手記> 夕日ヶ丘城は、南に中山道が走る独立丘上に築かれた城です。夕日ヶ丘などという、新興 住宅地のような名称が当時からあったのか疑問ですが、地元では向山城と呼ばれているよう です。登城路は南北双方の山麓からあるようですが、私は南側の向山神社脇から登りました。 夕日ヶ丘は東西に3つのピークが並ぶとても緩やかな小丘で、登城路はどちらも真ん中と西 の峰の間に出ます。ここは、おそらく堀切となっていた所で、現在は土橋状になっていますが、 当時のものかは不明です。 城の遺構は中央の峰に集中しており、東西の峰はそもそも城域に含まれていたのかも定か ではありません。主城域は上下2段となっていますが、基本的には単郭の城です。この段差は 古墳を利用していることから来るもののようです。主郭上段の東端付近に方形の櫓台があり、 同じく上段西端付近にも古墳由来と思われる高まりがあります。下段の西端には古墳の石室 があり、現地説明板によれば、明治期の村誌に「馬淵氏の倉庫なり。今猶紅腐の米あり。」と 記されているそうです。古墳の説明板には、前方後円墳の前方部分が東側にあたるとあり、 これが正しければ、石室が主郭西端にあるという事実と合致しません。古墳には詳しくはあり ませんが、主城域は複数の古墳を利用しているものと考えるべきなのかもしれません。ちなみ に、石室の中を覗いたのは石舞台古墳以来です。 夕日ヶ丘城のもう1つの特徴は、竪堀が多用されているという点です。はっきりそれと分かる ものだけで4〜5条あり、判別の難しいものも加えると10条前後あるものと思われます。また、 西側の峰にも、曲輪形成は認められないものの、竪堀跡と思しき箇所が2、3見受けられます。 使われている技術は室町後期以降の比較的高度なものであるものの、いかんせん地図から でも分かる通り非常に緩やかで広い丘であるため、地形上の要害性はかなり低いといわざる を得ません。したがって、一番の謎は、なぜここに城が築かれたのかという点にあろうかと思い ます。戦闘よりも政略を重視した城であろうことは明らかと思われますので、弥勒寺城や田中 山城など鏡山山系に築かれた戦闘用の城に対して、東山道を直接に押さえるための城だった というのが、一番に想起されるところではないでしょうか。あるいは、元亀元年に馬淵氏が蜂起 した際に、織田勢が陣城として一時的に取り立てた、と考えることもできようかと思われます。 |
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夕日ヶ丘遠望。 主城域は右手のピーク一帯です。 |
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主郭を囲う土塁。 | |
主郭下段のようす。 | |
主郭上段を望む。 | |
主郭下段西端の古墳石室。 | |
主郭上段櫓台の土塁。 | |
竪堀跡。 | |
堀切跡か。 |