結城城(ゆうき)
 別称  : 臥牛城
 分類  : 平山城
 築城者: 結城朝光か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR水戸線結城駅徒歩20分


       <沿革>
           藤原秀郷流小山政光の四男朝光は、寿永二年(1183)の野木宮合戦で源頼朝
          の叔父志田義広を破った功などにより、下総国結城郡の地頭に任じられた。結城
          城は朝光の築いた居館に始まるとされるが、確証はない。
           永享十二年(1440)、永享の乱で自害した鎌倉公方足利持氏の遺児春王丸と
          安王丸らを結城城に迎えた結城氏朝は、反室町幕府勢力を糾合して結城合戦を
          勃発させた。上杉清方を総大将とする討伐軍は、七月二十九日に結城城を包囲
          した。城は9ヶ月にわたって持ちこたえたものの、翌嘉吉元年(1441)四月に攻め
          落とされ、氏朝・持朝父子は討ち死にした。
           落城の際、まだ幼児であった氏朝の四男重朝は、乳母の手引きで追討を逃れ、
          常陸国の佐竹氏を頼った。春王丸・安王丸の弟の成氏が再興された鎌倉公方に
          就任すると、重朝も召し出されて成朝と改名し、結城城に復帰した。
           結城政朝・政勝父子のころには戦国大名化が進み、弘治二年(1556)には政勝
          によって分国法「結城氏新法度」が制定された。
           永禄三年(1560)に越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東へ出兵すると、関東の
          諸将は多くがこれに従ったが、政勝の子晴朝は北条氏方にとどまった。そのため
          佐竹義昭や小田氏治らに結城城を攻められ、一度は撃退するものの降伏を余儀
          なくされた。
           天正十八年(1590)の小田原の役で、晴朝は豊臣秀吉のもとに参陣し、結城領
          10万石を安堵された。晴朝には男子がなく、宇都宮広綱の次男朝勝を養嗣子に
          迎えていたが、豊臣政権や北条氏に代わる隣領の大大名となった徳川家康との
          関係を構築するため、家康の次男で秀吉の猶子となっていた秀康を新たに養子
          として家督を譲った。
           関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、秀康は越前北ノ庄67万石へ加増・転封と
          なった。結城は天領となり、結城城も廃城となった。ただし、結城氏によって免税
          とされていた旧城下町の特権は維持され、その範囲の境となっていた結城城の
          外堀は「御朱印堀」と呼ばれるようになった。しかし、実際に租税免税の御朱印が
          下されていたわけではない。
           元禄十三年(1700)、能登西谷藩主水野勝長が1万8千石で結城藩主となった。
          同十六年(1703)には結城城の再建が許されたが、どの程度の規模の城が築か
          れたのかは定かでない。『結城使行』には、かつての城堀がそのまま使用できる
          ほど良好な状態で残っていたことをうかがわせる記述がある。
           その後は明治維新まで、水野氏11代の居城となった。しかし、慶応四年(1868)
          には佐幕派が結城城を占拠したため、官軍がこれを攻め落としている。


       <手記>
           結城城は、鬼怒川の支流田川がΩ状に屈曲する内側に突き出た台地先端部を
          利用して築かれた城です。残る一辺にも用水川が流れていて、なかば浮島のよう
          になっているのですが、さすがにこれは後世に人為的に掘削されたものと思われ、
          かつては地続きだったものと考えられます。用水川がいつ造られたのかは定かで
          はありませんが、結城合戦の頃にはまだなかったのではないでしょうか。
           この田川と用水川に囲まれた主城域は、北半が城跡公園となっている主郭と、
          南に中城、西に西館、そして現在は消滅している主郭の北の実城の大きく4つの
          曲輪からなっていたようです。それぞれの曲輪は堀で囲まれて独立しており、今
          でも道路や民家の土手などによすがを感じることができます。
           なかでも特筆すべき遺構は、主郭と西館の間の空堀です。かなりの幅と長さに
          わたって残っていて、堀端を抜ける筋違いの道路も、かつての土橋をなぞったもの
          とされています。
           また、城跡公園から南に進むと、主郭内の仕切り堀と思われる三日月堀が池と
          なって、また主郭と中城の間の空堀も藪の中に認めることができます。
           結城城のもう1つの見どころは、前出の御朱印堀です。JR結城駅の北の孝顕寺
          境内の西辺にはっきりとしたものが残っています。『日本城郭大系』には、弘経寺
          や光福寺の境内にも残されているようにに書いてありましたが、今では失われて
          しまったのか、見つけられませんでした。

           
 主郭のようす。
主郭と西館の間の空堀。 
 三日月堀跡。
主郭と中城の間の空堀。 
 中城南辺の堀跡の道路。
中城西辺の堀跡および土塁跡と思われる地形。 
 用水川。
孝顕寺境内の御朱印堀。 
 孝顕寺。


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