湯村山城(ゆむらやま)
 別称  : 湯ノ島城
 分類  : 山城
 築城者: 武田信虎か
 遺構  : 曲輪、石塁、土塁、堀、虎口、井戸跡
 交通  : JR甲府駅からバスに乗り、
      「塩部」下車徒歩30分


       <沿革>
           『高白斎記』によれば、大永三年(1523)四月二十四日に「湯ノ島ノ山城御普請初」
          とあり、甲斐守護武田信虎が居館躑躅ヶ崎館の支城として築いたものと考えられて
          いる。ただし、新規の築城であったかは定かでなく、一族の逸見氏や信虎の祖父に
          当たる武田信昌の城がすでに存在していたとする説もある。
           湯村山城についてはこれ以上の記録がなく、その後の動静は廃城の経緯は不明
          である。


       <手記>
           湯村山城は、躑躅ヶ崎館の西方にせり出した、山稜南端のピーク上にあります。
          西麓に湯村温泉があることから湯村山城と呼ばれているのだと思いますが、史料
          の上では前出のとおり「湯ノ島ノ山城」としかみられないようです。
           城跡へは、東麓の緑が丘スポーツ公園の奥から、遊歩道が整備されています。
          温泉街や南麓からも登れるように思えますが、城跡から俯瞰した限りでは、明確な
          登山道はなさそうでした。スポーツ公園からは舗装された道をルンルンで上がれる
          ので、多少遠回りでもこちらから登ることをおすすめします。山自体はまったく険しく
          なく、地形上の要害性はさほどないといえるでしょう。
           城はまず東西方向の空堀によって南北に分けられ、南側の曲輪はさらに仕切り
          土塁によって東西に分割されています。その下にさらに細い帯曲輪が巡っています
          が、基本的には三ツ星型に並んだ3つの曲輪から成っています。これらの曲輪の
          呼び方は、資料によってまちまちで定説をみていないようです。というのも、最高所
          は堀の北側の曲輪なのですが、ここは自然地形の岩だらけでろくに整地もされて
          いません。はっきり城内なのかも定かでなく、ここを主郭と呼ぶのはたしかに違和感
          を覚えます。
           そこでいざ南側の曲輪を主郭と呼ぶとしても、今度は東西どちらが主なのかという
          問題が生じます。個人的には、東側が上段なのでこちらが主で西側が副のように
          思われるのですが、もっと言うとどちらでもよいのかなという気もします。ですので、
          ここでは堀の南側を主郭(東)・主郭(西)、堀の北側をニの郭と呼ぶことにします。
           主郭とニの郭を分ける堀は、東端付近の内側に石塁が用いられています。防御
          の用に立っているようには見えないので、おそらくは土留めと思われます。主郭は
          東西ともそこそこ広さがありますが、西の方には井戸跡が見られます。出入り口は
          両主郭とも複数見当たりますが、最も厳重なのは主郭(西)北西の、二の郭との間
          にある喰い違い状のものです。
           こうした虎口の工夫や堀の石積みといった構造から、少なくとも今に残る遺構が
          信虎期のものでないことはたしかでしょう。とくに、もともと広い曲輪を仕切り土塁に
          よって切り分けるという手法は、信虎の孫勝頼が築いた新府城との共通点として
          浮かび上がるように思われます。とすると、最終的な改修者は武田勝頼であり、
          天正九年(1581)に躑躅ヶ崎から居城が移転されるまでは現役であったものと推測
          されます。

           
 緑が丘スポーツ公園から湯村山城を望む。
主郭と二の郭の間の空堀。 
 空堀内側の石積み。
同じく。空堀の東端にこの石積みがあるため、 
堀切にはなっていません。 
 二の郭のようす。
主郭(東)のようす。 
 主郭を東西に分ける仕切り土塁。
主郭(西)のようす。 
 主郭(西)西辺の土塁。
主郭(西)内の石積み跡か。 
 主郭(西)の井戸跡。
主郭(西)北西端の喰い違い状の虎口跡。 
右上に空堀西端の石積みが見えます。 
 主郭(西)外側の帯曲輪跡。
湯村山城跡からの眺望。 


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