岩崎城(いわさき)
 別称  : 建ヶ城
 分類  : 平山城
 築城者: 不詳
 遺構  : 曲輪、土塁
 交通  : JR奥羽本線下湯沢駅徒歩15分


       <沿革>
           現地の玉子井戸の伝承や『奥羽永慶軍記』の記述に従うと、天文年間(1532〜55)まで
          に岩崎河内守道高が城主であったとみられる。『探訪ブックス 日本の城』には建長〜文永
          年間(1249〜75)に藤原河内守が築いたとあるが、典拠は明らかでない。また、岩崎氏は
          小野寺氏の庶流ともいわれるが、道高までの系譜は不明である。
           文禄四年(1595)、最上義光の重臣楯岡満茂が湯沢城を攻め落とすと、道高の子義高は
          主君の小野寺義道に援軍を要請した。しかし、多方面で攻勢を受けていた義道には、兵を
          回せるだけの余裕がなかった。最上家重臣楯岡満茂の家臣原田大膳は岩崎城に夜襲を
          かけ、義高は城を枕に討ち死にした。戦後、大膳がそのまま岩崎城主に任じられた。
           義道はその後も何度か湯沢城奪還を図ったが、いずれも失敗した。その際、岩崎城でも
          戦闘があったか否かは定かでない。
           慶長七年(1602)に佐竹家が出羽へ移封されると、最上家との間で所領交換が行われ、
          雄勝郡は佐竹領となった。岩崎城の扱いについては不明だが、元和元年(1615)の一国
          一城令までに廃城となったものとみられる。


       <手記>
           岩崎城は皆瀬川に面した半独立丘上の城館で、現在は千年公園となっています。丘の
          上部は馬蹄形になっていて、その東半が主郭、西半が副郭と思われます。主郭の下には
          帯曲輪、副郭には妙見神社の鎮座する櫓台状の土壇がみられます。
           馬蹄形の内側中腹は広い削平地となっていて、おそらく居館が置かれていたと推測され
          ます。その一角には玉子井戸があり、道高の一女能恵姫の守り石にまつわる先の伝承が
          残されています。
           城とは直接関係はありませんが、最も目を引くのは副郭西下の「鹿島様」でしょう。見るも
          巨大な藁人形で、武神を象った東北地方の厄除けなのだそうです。指や乳首、へそまで
          表現されていて、大きいだけでなくとても精巧な作りで印象に残ります。
           ちなみに、ウィキペディアなどネット上では「一名建ヶ城」という別称が散見されますが、
          これは「一名建ヶ城」と呼ばれていたわけではなく、一名が「建ヶ城」という意味です。誰か
          の読み違いが無分別にコピペされていったものと思われるので、ご注意ください。

           
 皆瀬川の対岸から岩崎城跡を望む。
中腹の削平地。居館跡か。 
 玉子井戸。
主郭のようす。 
 主郭からの眺望。
主郭下の帯曲輪。 
 同上。
副郭の妙見神社土壇。櫓台か。 
 鹿島様。
鹿島様へ通じる水神社。 
右手は副郭の切岸。 
境内も帯曲輪か。 


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