湯沢城(ゆざわ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 小野寺道定 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、貯水池 | |
交通 : JR奥羽本線湯沢駅徒歩20分 | |
<沿革> 稲庭城主小野寺経道の三男道定によって、建治三年(1277)に築かれたとされる。ただし、 当初から山城が設けられていたかは不明である。また、道定以降の湯沢小野寺氏の事跡に ついても定かでない。 天文十五年(1546)、小野寺本家当主の小野寺稙道は家臣の大和田光盛や金沢八幡宮 別当の金乗坊らに背かれ、湯沢城に追い詰められて敗死した(平城の乱)。当時の稙道の 居城がそもそも湯沢城であったともいわれるが、確証はない。稙道の子輝道(景道)はまだ 幼年で、庄内の大宝寺氏に匿われていたが、数年後に小野寺一族や八柏館主八柏道為 の支援を受けて光盛らを攻め滅ぼした。輝道は横手城を築いて新たな居城とし、湯沢城を 道為に任せたとされる。 文禄三年(1594)、輝道の子義道は、小野寺領を窺う最上義光の謀略にはまって道為を 殺害した。これを受けて、義光は翌四年(1595)に侵攻軍を雄勝郡へと送り込み、湯沢城を 攻め落とした。当時の城将であった小野寺孫七郎・孫作兄弟は、城を枕に討ち死にした。 兄弟は道為の従弟で、小野寺姓を許されていたといわれる。 義光は、家臣楯岡満茂を湯沢城主に入れた。慶長二年(1597)、義道は湯沢城の奪還を 図るが、満茂に敗れた。 慶長七年(1602)、義光は久保田藩主となった佐竹義宣と所領交換を行った。これにより、 雄勝郡は佐竹領となり、佐竹南家の佐竹義種が湯沢城代となった。一国一城令発布後の 元和六年(1620)に廃城となり、以後の佐竹南家は山麓に館を築いて政務をとった。 <手記> 湯沢城跡へのルートは2つあり、1つは北東麓から車で林道を上がるものです。このルート は城域の最後尾目の前までつけることができ、駐車スペースもあります。ただ、先端部まで 見学した帰りは登り道になるので、それほど労力削減にはなりません。もう1つは北西麓の 中央公園から登るもので、公共交通機関での最短ルートなのはもちろん、道を上がれるだけ 上がった先に駐車場も完備されています。ここには「前森館駐車場」と書かれていたので、 おそらく出丸があったものと思われます。どちらのルートとも城内で歩く道は同じで、城山は 森林公園のように整備されています。 湯沢城は、本丸と二の丸が別々のピークにあります。お互いにだいぶ離れていて、2つの 独立した城、あるいは主城と出城のような関係になっています。稲庭城も同様の特徴をもち、 小野寺氏の築城プランとして特筆すべきポイントといえるでしょう。 2つの峰に跨るということは、それだけ城域も広くなります。それに対して、本丸域と二の丸 域の間に堀切が穿たれている以外は、敵の進入を遮ったり制限したりする設備がほとんど みられません。兵力で勝る相手を迎え撃つという使い方は、この城では少々困難なのでは ないかというのが、個人的な感想です。 ちなみに、中央公園脇には力水という湧水があります。佐竹の殿様もご愛飲だったという 名水で、今も飲用に適するうえに水量も豊かです。湯沢城を訪れる際は、大きめの容器を 用意することをおすすめします。 |
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中央公園上の前森館駐車場。 出丸か。 |
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二の丸下の腰曲輪。 | |
二の丸の切岸。 | |
二の丸跡。 | |
二の丸裏手下の空間。曲輪形成は曖昧です。 | |
二の丸域と本丸域の間の堀切。 | |
堀切脇に石垣跡とありますが…違うと思います。 | |
馬舎跡。 | |
馬舎跡の先の見張台跡。 | |
見張台跡からの眺望。 | |
馬洗い池を見下ろす。 藪に埋もれて行けそうもありません。 |
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本丸跡。 | |
本丸から五社壇跡を見上げる。 | |
五社壇跡。詰曲輪および守護神跡か。 | |
本丸裏手の堀切跡…とありますが、 埋められたのかよく分かりません。 |
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馬場跡。最後尾の曲輪。 右手に土塁が伸びています。 |
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矢場・星場跡。弓矢および鉄砲の練習場跡。 | |
馬場跡の土塁を城外側から。 | |
馬場跡から林道を望む。 堀切があったかどうかは分かりません。 |
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おまけ:力水。名水百選の甘露です。 |