小田城(おだ)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 八田知家
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、馬出し等
 交通  : 常磐自動車道土浦北ICより車で20分


       <沿革>
           宇都宮宗円の子八田宗綱の四男知家は、鎌倉幕府によって常陸守護に任じられ、小田に
          館を築いて本拠とし、小田氏の祖となった。築城年には文治元年(1185)、同五年(1189)、
          建久四年(1193)など諸説ある。知家は、頼朝没後十三人の合議制の一人となった。
           南北朝期の当主治久は南朝に属し、北朝の佐竹氏らと激しく争った。延元三/暦応元年
          (1338)、同じ南朝方の北畠親房が海路から常陸へ上陸すると、治久は一行を神宮寺城
          迎えた。神宮寺城が佐竹勢によって攻め落とされると、親房らは阿波崎城を経て小田城へ
          移った。親房は小田城で 『神皇正統記』などを著したとされる。興国元/暦応三年(1340)、
          高師冬が足利尊氏の命を受けて関東に派遣されると、親房・治久らは迎え撃ったが、同三/
          五年(1342)に降伏した。親房は小田城を退去し、治久は以後北朝方として戦った。この間
          治久は常陸守護職を佐竹氏に奪われ、小田氏は勢力を衰退させた。
           治久の子孝朝は、天授六/康暦二年(1380)からの小山氏の乱において小山義政討伐に
          功を挙げたが、義政の遺児若犬丸を匿ったため鎌倉公方の上杉朝宗の攻撃を受けた。至徳
          四/元中四年(1387)、小田勢ははじめ小田城で、後に男体山城へ移って抵抗したが、敗れ
          て翌年に降伏した。その後の小田氏は、勢力回復を目的として古河公方や管領上杉氏の間
          を行ったり来たりしていた。
           孝朝から4代下った成治のとき、嫡男治孝と次男(北条)顕家の間で家督争いが起こった。
          明応五年(1496)、治孝は顕家によって殺され、顕家は小田氏家臣団や隣国真壁氏の助力
          を得た成治三男の政治によって討たれた。政治については、堀越公方足利政知の実子で、
          成治の養子ともいわれる。この場合、政治は将軍足利義澄の弟となる。
           政治は多方面で積極的に軍事活動をおこし、小田氏の勢力挽回に努めた。さらに妹を宿敵
          の佐竹義篤に嫁がせ、江戸氏を石岡の戦いで破り、古河公方や結城氏と激しく争った。政治
          のときに、小田氏は最盛期を迎えたといわれる。しかし、政治が亡くなる2年前の天文十五年
          (1546)には河越野戦があり、北の佐竹氏に加えて、南からも北条氏の圧迫を受けるように
          なった。
           弘治二年(1566)、逸早く北条氏に接近していた結城政勝が、北条氏康の支援を得て小田
          氏を攻めた。政治の跡を継いでいた子の氏治は戦ったが敗れ、小田城を棄てて土浦城へと
          撤退した。しかし、同年中に小田城と旧領を回復した。翌三年(1557)からその翌年にかけて、
          今度は佐竹氏の援助を得た多賀谷氏と争い、敗れては土浦へ避難してを繰り返した。
           永禄四年(1561)、越後の長尾景虎が小田原城を包囲すると、氏治も反北条氏連合の一員
          として佐竹氏や多賀谷氏らの宿敵とともに包囲軍に参加した。だが、景虎の関東攻略が頓挫
          すると、氏治は北条氏に接近し、翌五年(1562)に同盟を結んだ。これにより、北条・小田v.s.
          佐竹・上杉謙信(景虎)の対立が熾烈となった。同七年(1564)、氏治は上杉・佐竹連合軍に
          敗れ、小田城を棄てて藤沢城、ついで土浦城へと逃れた。まもなく一度は小田城を奪還する
          ものの、同年中に再び敗れて土浦城へ撤退した。佐竹氏は北條義則を小田城代として、城を
          改修した。義則は、その苗字から北条城主であった小田氏一族北條氏の縁者と推測されるが、
          詳細は不明である。翌八年(1565)、佐竹義昭が没した隙をついて、氏治は小田城を夜襲し、
          義則を駆逐した。翌九年(1566)には、再び上杉・佐竹連合軍に小田城を奪われたが、翌年に
          取り返している。
           永禄十二年(1569)、氏治は片野・柿岡両城主の太田三楽斎・梶原景国父子を攻めるために
          出陣したが、手這坂の戦いで佐竹勢に完敗し、小田城も別動隊の真壁勢に奪われてしまった。
          氏治は再び藤沢城、ついで土浦城へ退いたが、以後小田城主に返り咲くことはなかった。小田
          城には三楽斎が入った。
           その後も、氏治は小田城奪還に執念を燃やすが、逆に義重によって追い詰められ、天正十一
          年(1583)に至って佐竹氏に完全降伏した。同十八年(1590)に小田原の役が起こると、これを
          好機とみて最後の小田城奪還の兵を挙げたが、太田父子は城を守りぬいた。逆に、豊臣方の
          佐竹氏を攻撃したことを秀吉に咎められ、氏治は所領を召し上げられた。ここに大名小田氏は
          滅亡し、小田城は佐竹氏の拠点として確定した。
           その後、義重の弟の小場義宗が城主となったが、慶長七年(1602)に佐竹氏が出羽へ転封と
          なると、小田城はついに廃城となった。ちなみに、幾度となく城を奪われながらもその度に小田
          氏が城を奪還できたのは、地元民が小田氏に協力的だったからといわれる。古文書にある言い
          伝えでは、領民は新領主に年貢を出し惜しみ、蓄えた分を密かに小田氏に送ったといわれる。


       <手記>
           小田城は、筑波山から続く山の麓、小田集落の真ん中にあります。現在でこそ平地のなかに
          ぽつんとある感じですが、おそらく桜川の河岸を利用した崖端の城館で、当時は周囲を湿地か
          深田に囲まれていたものと推測されます。城主の小田氏が何度も城を奪われていることから、
          防御性に弱い城とみられていますが、個人的には地形的に一定の防衛用城郭としての用件は
          満たしていたものと考えています。
           また、筑波山系に沿って東西方向と南北方向の道が交差するあたりに位置し、地理的にも
          交通上の要衝にあったものと思われます。
           かつて、城内を筑波鉄道(旧関東鉄道筑波線)が貫通していましたが、鉄道は昭和六十二年
          (1987)に廃線となりました。現在、その線路跡はサイクリングロードとして整備されていますが、
          小田城址は本丸を中心に公園整備が進んでいるようで、本丸部分については上の地図のよう
          に、迂回するルートに変更されています。こうしてみると、できる事なら電車に乗って本丸を突き
          抜けるところを体感してみたかったなぁと思ったりします。
           私が訪れたときは、まだ工事も始まってそう経っていないといった感じで、一応の作事が完了
          しているのは本丸南の馬出し周辺のみでした。とくに、現在進行中の付近は、前日が雨だった
          こともありひどいぬかるみになっていました。そんななかを多数の重機が容赦なく土を掘ったり
          盛ったりしていて、遺構の保存というより史跡公園化を主眼としていることがうかがえます。
           遺構は本丸を中心に良好に残っており、輪郭式の大城郭のようすをうかがい知ることができ
          ます。しかし、これが幾度となく攻防を繰り返した小田氏の時代の遺構とは思えず、とくに伏兵
          曲輪や二重馬出しを備えているあたり、現在の縄張りは小田原の役以降に完成されたものと
          考えられます。何はともあれ、史跡公園として整備されれば、かなり広大な憩いの場、そして
          戦国時代を肌で感じられる場となるのではないかと期待されます。
           余談ですが、2012年5月に巨大竜巻によって甚大な被害を受けた北条地区は、小田地区の
          北西2qほどのところになります。私が訪れたのはその2か月前のことでした。

           
 小田城址本丸跡のようす。
本丸北の丸馬出し跡。道路がちょうど堀跡です。 
 二の丸の堀跡。
本丸西側の堀と土塁。 
 本丸南の馬出しの堀と土塁。
本丸南馬出し内部のようす。 
 小田城南東隅の志田曲輪を望む。
 左手の道は筑波鉄道跡のサイクリングロード。
伏兵曲輪となっている一の木戸の堀と土塁。 
ちょうど手作業で芝を貼る作業中でした。 
 小田城北西隅付近の新左衛門屋敷の堀。


BACK