安倍城(あべ) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 狩野貞長 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁 | |
交通 : 静岡鉄道新静岡駅からバスに乗り、 「羽鳥」下車徒歩90分 |
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<沿革> 南北朝時代初期に、建武新政権の武者所に詰めていた狩野貞長によって築かれたと されている。貞長は伊豆狩野介の一族とみられるが、詳しい系譜は定かでない。貞長は 井伊氏や蒲原氏らとともに駿河・遠江の南朝方の中心勢力となり、暦応元/延元三年 (1338)に北朝の今川範国の攻撃を受けた。安倍城は、このときまでには存在していた ものと考えられている。 宗良親王の私家集『李花集』によると、康永三/興国五年(1344)ごろに、宗良親王や その甥にあたる興良親王が、一時的に安倍城の貞長のもとにあったことがうかがえる。 1350年代に入ると蒲原氏は滅んだが、狩野氏はなおも抵抗を続けた。しかし、明徳三/ 元中九年(1392)に南北朝が統一されると、狩野氏もついに今川氏に降った。 永享五年(1433)に今川範政が没すると、その嫡子範忠と末子小鹿範頼の間で家督 争いが勃発した。これを受けて、将軍足利義教から後継指名された範忠に対し、狩野氏 は安倍城で挙兵した。しかし、反乱は範忠軍に鎮圧され、駿河狩野氏は没落した。これ 以降、安倍城は史料に登場しない。 <手記> 静岡市街の北西に横たわる、標高435mの雄々しい山塊が安倍城跡です。安倍川を 挟んで、今川氏の詰城とされる賤機山城と対峙しています。南西麓の洞慶院、南東麓 の増善寺、そして北東麓の西ヶ谷から登山道が延びています。とくに洞慶院は梅林で 有名で、広い駐車場も備えています。お寺の駐車場なので止めてよいものか逡巡して いたのですが、私のほかにもハイキング客が多数来ていたので、梅のピークの時期で なければ、多分お目こぼしいただけるのでしょう。 私は洞慶院から登りましたが、急斜面は何度かあるものの頂上まで遊歩道がしっかり 整備されているので、快適に歩けました。一般のハイキング客とも多くすれ違うので、 心細さもないでしょう。洞慶院ルートは、1つ手前の峰の久住砦跡を経由して安倍城跡 へ達するので、その点でも合理的に感じます。 山頂には城址碑があり、また市街方面の樹木が伐採されているので、眺望にとても 優れています。一般客も次々やって来るだけあって、比高およそ380mから望む景色は まさに絶佳です。 城は、山頂の主郭の北に2段の削平地、さらにその北に3条のごく浅い堀切跡が認め られます。南側には腰曲輪が1段、その先は曲輪形成されているのかどうかあやふやな 地形が続きます。また、久住砦との間の鞍部に、岩を削った堀切状の地形が見られます が、主城域からは離れているので、城の遺構なのかどうかは判断に窮します。 全体的に、比較的古い城跡ではあるものの、堀切の存在をどう見るかが存続期間の 推定のポイントと感じました。すなわち、狩野氏の没落は戦国時代より前ですが、その ころに3条の堀切が設けられていたかどうかが判断の分かれ目でしょう。3条はいずれも 造作が浅くて甘いので、狩野氏のものといえなくもないですが、そもそも3連堀切が当時 一般的であったかどうか、難しいところではないでしょうか。もし、狩野氏が滅んだ後も 使用されたとすれば、伊勢盛時(北条早雲)が今川氏のもとへ下向した、15世紀後半の 小鹿範満と今川氏親の家督争いあたりで再び取り立てられたのかな、とも拝察します。 |
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賤機山から安倍城跡を望む。 | |
主郭の石碑。 | |
主郭のようす。 | |
主郭から富士山方面を望む。 | |
同じく静岡市街方面を望む。 中央の山頂が賤機山城跡。 |
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主郭北側の腰曲輪から主郭土塁を見上げる。 | |
同じく2段目の腰曲輪から1段目の土塁を望む。 | |
北側尾根1条目の堀切跡。 | |
同じく2条目。 | |
同じく3条目。 | |
主郭北側の腰曲輪。 | |
その下に続く地形。 | |
久住砦との間の鞍部にある堀切状地形。 |