賤機山城(しずはたやま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 今川範国ないし今川範政
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : JR静岡駅または静岡鉄道新静岡駅から
      バスに乗り、「赤鳥居」下車徒歩70分


       <沿革>
           賤機山城築城の経緯には2説ある。1つは、南北朝時代初期に安倍城を築いて拠った
          南朝の狩野貞長に対抗するため、北朝の駿河守護となった今川範国が築城したとする
          もの。もう1つは、南北朝統一後に駿府入りした、範国の曽孫範政によって、今川氏館
          詰城として築かれたとするものである。
           永禄十一年(1568)に、武田信玄が駿河へ侵攻して駿府を攻め落とした際、武田軍は
          「籠鼻」に陣取ったと『甲陽軍鑑』にあり、このときに賤機山城は落城したか接収された
          ものと推測されている。
           天正十年(1582)、織田信長の武田攻めによって、駿河国には徳川家康が進軍した。
          このとき、賤機山城で攻防戦があったか否かは詳らかでない。戦後、賤機山城は廃城と
          なったとされる。


       <手記>
           安倍川に沿って、駿府城の北西に細長く伸びる山稜全体を指して一般に賤機山と呼ば
          れているようですが、賤機山城跡があるのは今川家の菩提寺である臨済寺背後の峰上
          です。南端の浅間神社から遊歩道が延びていて、市民の憩いの散策コースとなっている
          ようです。車であれば、南西の温浴施設脇から林道を上がり、2番目のヘアピンカーブの
          ところに駐車スペースがあり、そこから登山道が付いているので、だいぶショートカットに
          なるでしょう。この道を上がった先は、「静岡空襲戦禍犠牲者慰霊塔」の建つ広場で眺め
          も良いのですが、城跡はもう1つ北側の峰なので要注意です。
           城跡は南北2つのピークから成っており、北東側が主郭です。主郭内は土塁で区画され
          ているほか、北東隅に升形が認められ、ここに城址碑と説明板があります。主郭背後には
          大きな竪堀が設けられ、さらに下ると、小規模な畑地の手前に最後尾と見られる堀切が
          穿たれています。
           南西側の二曲輪との間は土橋となっていますが、当時堀切だったかどうかは不明です。
          こちらも東辺を中心に土塁が残り、その先には尾根筋に堀切が2条認められます。二曲輪
          西側尾根先が籠鼻だそうで、そこまでは行きませんでしたが、途中まで尾根筋を下って
          みたところ、曲輪跡とみられる削平されたスペースがありました。
           『静岡の山城 ベスト50を歩く』などでは、賤機山城について武田氏の改修の可能性を
          指摘しています。その理由の1つとして堀切などの造作の規模が挙げられていますが、
          個人的には、今川氏にもこれくらいの城を築く能力はあっただろうと思っています。いくら
          なんでも、今川氏の地力を見くびり過ぎではないでしょうかと笑
           ただ、武田氏が賤機山城をまったく顧みなかったともいえないでしょう。とはいえ、駿河
          領有後に新たに江尻城久能城を築いたり、丸子城田中城を大改修しているのと
          比べると、賤機山城の規模は中途半端といわざるを得ません。駿府についてはそこまで
          重視しておらず、賤機山城もほとんど手つかずのままだったのではないかな、というのが
          個人的な感想です。

           
 狩野山砦跡(妙音寺)から賤機山を望む。
 城跡は画面中央の最高所付近。
主郭北東隅升形の石碑と説明板。 
 主郭の土塁。
主郭内部のようす。 
 主郭南西隅付近の土塁。
 虎口跡か。
主郭北東下の竪堀。 
 最後尾とみられる堀切。
主郭と二曲輪の間の土橋。 
 二曲輪内部のようす。
二曲輪の土塁。 
 同じく南端付近の土塁。
 虎口跡か。
二曲輪下の堀切。 
 その南側尾根筋にあるもう1条の堀切跡。
二曲輪西側尾根の曲輪跡。 


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