我孫子城(あびこ)
 別称  : 城山
 分類  : 平山城
 築城者: 我孫子氏か
 遺構  : なし
 交通  : JR常磐線・成田線我孫子駅徒歩20分


       <沿革>
           地元ではかつて城山と呼ばれており、遺構も残っていたとされる。
           『日本城郭大系』によれば、小金城主高城氏家臣我孫子左衛門但馬守なる人物が
          城主であったと『八木原文書』に記載されているとある。戦国時代に勢力を拡大した
          高城氏の支配下にある城であった可能性は高いと思われるが、我孫子氏の実在に
          ついては確認されていない。
           『本土寺大過去帳』には、「文明十年(1478)於堺根原打死(中略)野嶋入道アヒコ」
          とある。このいわゆる境根原の戦いで討ち死にした野嶋入道について、詳細は不明
          であるが、あるいは我孫子の城主であった可能性も考えられる。他方で、同過去帳に
          よれば、同八年(1476)には高城彦四郎が、永正十一年(1514)と翌十二年(1515)
          にはそれぞれ高城周防守と同和泉守が「アヒコニテ」死去している。


       <手記>
           我孫子城は、北に向かって細く伸びる丘陵の先端に位置しています。両サイドと北
          が沢谷戸となっており、対岸には久寺家城があります。沢との高低差はあまりありま
          せんが、当時は常陸川(江戸時代に付け替えられた利根川の旧称)氾濫原から続く
          湿地帯に囲まれていたものと推測されます。
           現在、城跡の中心をバイパスが貫通し、周囲にも商業施設や住宅地が建ち並んで
          おり、遺構は消滅しています。ただ、北端の鼻をはじめ外郭のラインはなんとなく読み
          とれるため、おおよその城の規模や立地をうかがうことはできます。城址碑や案内等
          はありません。
           城主についてですが、「左衛門但馬守」などという名乗りがあったとは少々考えにい
          ように思います。あるいは「左衛門」「但馬守」という別々の人物を指したものかも知れ
          ませんが、『八木原文書』の内容をそのまま受け容れるのは問題がありそうです。

           
 我孫子城址周辺現況。
城跡先端付近のようす。 


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