安威城(あい)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 安威弥四郎か
 遺構  : なし
 交通  : JR京都線茨木駅ないし阪急京都線茨木市駅
      からバスに乗り、「安威南口」下車徒歩3分


       <沿革>
           土豪安威氏の居館跡とされる。安威氏の出自は定かでないが、現地説明板によれば
          貞治二年(1363)の『六波羅蜜寺文書』に名が見られ、鎌倉時代末ごろには在地領主と
          して成立していたと考えられている。
           『日本城郭大系』によれば、16世紀初めごろに安威右近太夫が摂津守護細川氏から
          安威庄惣領職を安堵され、そのころに安威弥四郎が安威城を築いたとしている。他方で
          同書では、より古くから安威城の地に安威氏の居館が営まれていた可能性も示唆して
          いる。
           大永七年(1527)二月、両細川の乱における桂川の戦いに際し、細川高国方に属して
          いた安威城をはじめとする摂津諸城は細川晴元方の波多野元清に落とされたとされる
          (『足利季世記』)。その後、晴元の家臣であった三好長慶が台頭すると安威氏も三好氏
          に従属し、弥四郎の子とされる安威了佐は豊臣秀吉の側近となった。
           茨木城主中川秀政が天正十四年(1586)に播磨三木城へ加増・転封と、了佐は秀吉
          の直轄領となった茨木領の代官として茨木城に入った。了佐の子勝宗は豊後岡城主
          なった中川氏に従ったとされるが、安威城の廃城時期は詳らかでない。


       <手記>
           安威城は安威川西岸に広がる台地の角にあったとされています。上図に示した場所に
          石碑と説明板があり、それによると石碑前の南北道路と安威小学校東辺の道に挟まれ
          た縦長の長方形区画が本丸跡で、かつては御殿台(みとのだい)と呼ばれる土壇地形が
          あったそうです。
           現状では遺構は見られず、東側の丘陵斜面が竹藪になっているので分け入ってみた
          ものの、やはり城跡につながるようなものは見当たりませんでした。北の花園山に詰城
          があったということなので、基本的には居住用の館城だったのでしょう。

 南東から安威城跡を望む。
石碑と説明板。 
 石碑前の道路。
 この左手後方が本丸跡とされています。
東側斜面の切通し道。 


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