本渡城(ほんど) | |
別称 : 本戸城、本砥城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 天草氏か | |
遺構 : 不詳 | |
交通 : 本渡バスセンターからバスに乗り、 「船の尾」下車徒歩10分 |
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<沿革> 本渡は、かつて本砥島と呼ばれた天草下島の中心地である。貞永二年(1233)の 『志岐文書』によれば、天草種有が本砥島の地頭職ほか島内の領地を子供たちに 分割相続させている。天草氏は古代名族大蔵氏の後裔で、天草五人衆と呼ばれる 天草の有力国人のうち、大矢野氏や上津浦氏とは同族とされる。 同じころ、菊池氏の一族兵藤氏が志岐六ヶ浦の地頭職を拝領し志岐氏を称した。 志岐氏は北条得宗家との結びつきを強めて本砥への進出を図り、天草氏と対立を 深めていった。 南北朝時代に入ると、志岐氏は北朝、天草氏は南朝に属して争った。14世紀末に 南北朝が統一されると、本渡は志岐氏領となった。 戦国時代に入ると天草の国人は一揆を組み、はじめは菊池氏に、ついて相良氏に 従った。宣教師ルイス・フロイスの『日本史』には、天草氏が天草五人衆で最も重要 な人物で、河内浦城を居城として領内に4つの城館を保有していると記されている。 このころまでには、天草氏は本渡を回復し、本渡城を築いていたものとみられるが、 実際の築城時期および築城者については定かでない。本渡城には、河内浦天草氏 分家の天草(瀬戸)種元が城主として配された。 天正十五年(1587)、天草五人衆は九州平定に乗り出した豊臣秀吉に降伏した。 佐々成政統治下で発生した肥後国人一揆には加わらなかったが、同17年(1589) には、五人衆全員が成政の後釜として肥後半国を与えられた小西行長に対し反乱 を起こした(天草国人一揆)。宇土城築城に際し、行長の普請手伝いの要求を拒否 したことが直接のきっかけとされる。 行長と、肥後北半国の大名加藤清正の討伐軍が迫ると、本渡城には種元のほか 五人衆の1人で志岐城主の志岐麟泉(鎮経)や天草氏と縁戚の客将木山弾正正親 らが立て籠もった。弾正は500の兵で打って出て、清正と一騎打ちに及んだものの 討ち取られた。続いて本渡城も攻め落とされ、種元は自害したと伝わる。 他方で、降伏した天草本家の天草久種は、同じキリシタンのよしみの故か行長に よって引き続き召し抱えられた。河内浦城主のまま本渡の代官に起用されたが、 本渡城が存続したのかは定かでない。 <手記> 本渡は天草地方の中核で、その市街北西背後の丘陵が本渡城址です。城域に ついては、天草キリシタン館が立つ尾根先周辺とするものと、明徳寺の裏山を含む とする説の2つがあります。 時間の都合で明徳寺裏山までは登ることができませんでしたが、キリシタン館の 裏手には「本戸城址」の石碑と木山正親を祀った弾正社があります。キリシタン館 建設に伴って遺構は消滅しているようですが、「常秀之印」と彫られた石製印鑑や 多数の土師器が発掘されたことを解説する説明板が、敷地内に2か所設置されて います。また、弾正社の背後は尾根の細頸に切通し道が抜けており、堀切や切岸 の名残とも考えられ、もっとも城跡らしらを感じられる箇所といえます。 明徳寺裏山の頂上には祠があり、段築になっているようすもうかがえるものの、 曲輪形成は明瞭ではないとのことです。ただ、「城平」や「本丸」、「馬責め場」など の小字があり、一部堀切の痕跡も認められるそうです。一連の小字にしたがえば、 キリシタン館のあるピークが「二の丸」、切通し道を挟んだ明徳寺墓地の尾根筋を 「一の丸」、そして尾根先端側にもう1つある小ピークを「出丸」と呼ぶようです。 地名や現場の遺構から鑑みて、明徳寺裏山も城域に含まれることは間違いない でしょう。ただし、もともとは字名でいう「二の丸」と「出丸」までが城域で、その後に 「本丸」まで拡張されたのではないかというのが個人的な見解です。 はじめから明徳寺裏山までを城域とすると、天草氏の居城である河内浦城よりも かなり広大な城ということになります。天草氏の地力を考えれば、そんなに巨大な 城を構えたところで守り切れるだけの兵はいなかったでしょう。そこで想起される のは、天正十五年の天草国人一揆に際して、天草氏だけにとどまらない一揆勢の 拠点として、本渡城が臨時かつ即席の掻き上げ城として拡張されたのではないか という筋書きです。これなら、本丸周辺の造作が曖昧である点も説明がつきます。 |
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本戸城址碑と弾正社。 | |
キリシタン館からの眺望。 | |
キリシタン館(二の丸)から出丸を望む。 | |
キリシタン館敷地内の出土物に関する説明板。 |