河内浦城(かわちうら) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 天草氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : 本渡市街または牛深市街からバスに乗り、 「一町田橋」下車徒歩5分 |
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<沿革> 天草五人衆の1つ(河内浦)天草氏の居城とされる。天草氏は古代名族大蔵氏の 流れを汲み、五人衆のうち大矢野氏や上津浦氏とは同族とされる。 貞永二年(1233)の『志岐文書』によれば、天草種有は本砥島の地頭職のほか、 「河内浦・おほみ浦・高浜・平浦・うふしま」を子供たちに分割して譲った。河内浦は 次男種資が譲り受けたといわれるが、確証はない。河内浦に入植した天草氏に よって館が設けられたとみられるが、河内浦城跡付近なのかは定かでない。 同じころ、菊池氏の一族兵藤氏が志岐六ヶ浦の地頭職を得て志岐氏を称した。 志岐氏は北条得宗家との結びつきを強めて本砥への進出を図り、天草氏と対立を 深めていった。 建武四/延元元年(1337)の『志岐文書』に、北朝方の兵藤(志岐)太郎高弘が 本砥島ならびに亀河の地頭職を得たとして請文を披見したが、南朝方の河内浦 大夫三郎入道はこれを認めず、城を構えて使者に矢を放ち、自ら放火に至ったと ある。河内浦城はこのとき初めて築かれたとも読み取れるが、確証はない。少なく とも、このころの天草氏の拠点は河内浦に移っていたものと推測される。南北朝が 統一すると、本砥(本渡)は北朝の志岐氏の領するところとなり、以後、河内浦城が 天草氏の居城として固定化したものと思われる。 戦国時代に入ると天草の国人は一揆を組み、はじめは菊池氏に、ついで相良氏 に従った。ルイス・フロイスの『日本史』には、天草氏が領内に4つの城館をもち、 居所は河内浦にあったことが明確に記されている。また、同書では五人衆のうち 最も重要な人物として天草氏を挙げており、事実、キリスト教に帰依した天草鎮尚 のころまでには、天草氏は本渡城を回復して勢力を拡大している。しかし、居城は 河内浦城に置いたままで、本渡城には庶流の天草(瀬戸)種元を配していた。 天正十五年(1587)、天草五人衆は九州平定に乗り出した豊臣秀吉に降伏した。 佐々成政統治下での肥後国人一揆には加わらなかったが、同17年(1589)には、 五人衆全員が成政の後釜として肥後半国を与えられた小西行長に対して反乱を 起こした(天草国人一揆)。宇土城築城に際して行長の普請手伝いの要求を拒否 したことが、直接のきっかけとされる。しかし、行長および北肥後の大名加藤清正 の討伐軍に敗れて本渡城が落城し、鎮尚の子久種は降伏した。同じキリシタンの よしみからか、久種はそのまま行長の配下となり、河内浦城主にとどまった。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで小西家が改易されると、久種は禄を失って 天草を去った。天草領は唐津城主寺沢広高に与えられた。河内浦城はその後も 存続し、寺沢家臣並河兵右衛門が城代を務めた。元和元年(1615)の一国一城 令によって城破りが行われ、屋敷構えとなったことが、兵右衛門の子太左衛門の 『並河太左衛門記』に記されている。 <手記> 河内浦城は天草下島の南西部、一町田川の下流に面した細長い小峰の上に 築かれています。羊角湾の最奥に位置し、かつては城の南に港を望めたものと 思われます。羊角湾の中途には、世界遺産に登録されている崎津集落があり、 当時は船舶での移動が重要だったものと推察されます。川を挟んだ対岸には、 対を成していたとみられる下田城跡があります。 城山の南麓には崇円寺があり、居館跡とされています。北東麓には日帰り温泉 「愛夢里(あむり)」があり、その裏手から遊歩道が整備されています。駐車場も お借りできるので、こちらから登るのがおすすめです。 階段を上り、竪堀をしばらく行くと、主郭背後の堀切に出ます。城は上下2段の 主郭とその下に帯曲輪からなるごく小規模なものです。天草の地勢や動員兵力 を考えると、この程度で十分だったのでしょう。主郭からは5棟の掘立柱建物跡 が検出されていて、そのうち北端のものは井楼の物見櫓だったと推定されてい ます。天草の城では珍しい屋根瓦も発掘されていて、フロイスの記述にある天草 の筆頭勢力にふさわしい建物が置かれていたことが類推されます。 |
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愛夢里駐車場から河内浦城跡を望む。 | |
主郭背後の堀切。 | |
竪堀。 | |
主郭上段のようす。 | |
主郭下段のようす。 | |
主郭下段から上段方面を望む。 | |
主郭から一町田川上流方面の眺望。 | |
帯曲輪。 | |
崇円寺墓地。 居館跡とみられています。 |