志岐城(しき)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 志岐氏
 遺構  : 曲輪、土塁、堀
 交通  : 本渡バスセンターからバスに乗り、
       「苓北町役場前」バス停下車徒歩25分


       <沿革>
           天草五人衆の1人志岐氏の居城である。志岐氏は菊池氏の庶流とされ、『志岐氏系図』
          によると、藤姓菊池氏初代菊池則隆の孫山鹿経政の曽孫にあたる兵藤弘家を祖とする
          とされる。一次資料上は、建暦二年(1212)の『関東下文案』において、同系図で弘家の
          孫とされる兵藤左衛門尉光弘が北条義時から天草郡六ヶ浦の地頭職を与えられたのが
          初出とされる。経政および弘家の実在は確認されておらず、光弘以前の系譜については
          疑問が呈されている。
           光弘は志岐領を北条得宗家に寄進し、その代官となることで、執権の威を背後に勢力
          の拡大を図った。志岐のある本砥島(現在の天草下島)には、九州の名族大蔵氏の庶流
          天草氏も入植していたが、次第に両家は本砥島の地頭職をめぐって争うようになった。
          天草氏との緊張関係のなかで、城砦を築く必要性が生じたものと推測されるが、志岐城
          の詳しい築城年代は明らかでない。『志岐文書』によれば、建武四/延元元年(1337)に
          天草氏(河内浦大夫三郎入道)が河内浦城を築いていることから、この前後の記事には
          志岐城も存在していたものと類推される。
           戦国時代に入ると、天草国人は「天草五人衆」と呼ばれる一揆を組んで共同歩調をとる
          ようになり、志岐氏は天草氏と並んでその筆頭格となった。菊池氏が衰退すると大友氏
          に従属し、志岐重弘の子は大友義鎮の偏諱を受けて鎮経と名乗り、義鎮が入道して宗麟
          と号すると、やはり一字をもらい受けて麟泉と称した。
           麟泉は海峡を挟んだ日野江城主有馬晴純の子諸経(親弘)を養子とし、宗麟や晴純の
          影響を受けて、永禄九年(1566)に宣教師アルメイダを領内に招いた。これが、天草での
          キリスト教布教のはじまりとされる。しかし、志岐氏の領内には大型船が停泊できる良港
          がなく、南蛮貿易による利益が得られなかったことから、麟泉はあっさりとキリスト教弾圧
          に転じた。逆に、天草氏が熱心なキリシタンとなったことから、布教の拠点は河内浦へと
          移った。ルイス・フロイスの『日本史』では、天草でもっとも重要な領主として天草鎮尚が
          挙げられ、麟泉はあからさまに非難されている。
           天正六年(1578)の耳川の戦いにより大友氏が衰退しすると、志岐氏は龍造寺隆信に、
          次いで島津氏に降った。同十五年(1587)に豊臣秀吉が九州平定の軍を起こすと、秀吉
          に従って本領を安堵された。
           天草国人は、佐々成政統治下で同年に発生した肥後国人一揆には加わらなかった。
          しかし天正17年(1589)には、成政の後釜として肥後半国を与えられた小西行長に対し、
          五人衆全員が反乱を起こした(天草国人一揆)。宇土城築城に際し、行長の普請手伝い
          の要求を拒否したことが直接のきっかけとされる。
           行長の討伐軍は、志岐城を落とすべく海路を袋浦(今日の富岡湾)へと向かった。だが、
          上陸したところを麟泉の軍に襲われ大敗した。行長は肥後北半国の大名加藤清正らに
          加勢を依頼し、清正軍が迫ると、麟泉は天草種元らとともに本渡城に籠もった。しかし、
          連合軍に敗れて麟泉は志岐城へ撤退し、種元は城を枕に自害した(生存説あり)。麟泉
          は養子諸経とともにその実家有馬氏を頼って落ち延び、志岐城も陥落した。これにより
          天草国人志岐氏は滅びたが、志岐城の廃城時期については詳らかでない。遅くとも、
          関ヶ原の戦いの功により天草を与えられた唐津城主寺沢広高が、慶長七年(1602)に
          富岡城を築くまでには廃されていたと考えられる。

          
       <手記>
           陸繋島である富岡半島の砂嘴の付け根に広がる志岐は、険しい地形の天草諸島に
          あっては貴重な平野部です。その扇状に広がる志岐の郷を見渡す細長い峰の上に、
          志岐城は築かれています。麓の消防署脇から登り路が伸びていて、車でも上がれます
          が、途中すれ違えないほど細い箇所があります。小型の乗用車や軽自動車でないと、
          カーブでにっちもさっちも行かなくなってしまうかもしれません。二の丸まで登ると数台分
          の駐車場がしっかり整備されていて、ここまでくればようやく一安心できます。
           主郭には志岐麟泉社という神社があり、その奥には櫓台状の厚手の土塁があります。
          同様の土塁は河内浦城の主郭最後尾にもあり、こちらは井楼櫓の柱穴が検出されて
          います。志岐城にも、同じような物見櫓があったと考えるのは妥当でしょう。城の最後尾
          には堀切があるとのことなのですが、藪がひどくて踏査も視認も困難でした。
           駐車場のある二の丸は四阿のある芝生の広場となっています。こちらはきれいに人の
          手で刈り込まれていて、その分を少しでも本丸や堀切方面にも回していただければなぁ
          と思うのは城好きのわがままでしょうか。
           二の丸から少し先端側に下りた先のピークが出丸と呼ばれています。出丸の脇には
          腰曲輪状の削平地が付属していますが、当時の遺構かどうかはにわかに判断できかね
          ます。さらに下りると志岐八幡宮跡との小さな石標の立つ区画があり、ここまでが城域
          だったものと推察されます。
           ざっと歩いた感じでは、志岐城は河内浦城よりはいくぶん規模の大きい城といえます。
          ただ、河内浦城は向かい合う下田城とセットだったとみられており、そう考えると、ほぼ
          対等な力関係を象徴しているといえるでしょう。どちらも両氏の支配域の広さからみると
          控え目な城とも思えますが、山がちな天草の地形を考慮すると、これ以上大きな城郭を
          構えたところで、守り切れるだけの兵力は揃えられなかったのかなと思われます。

           
 富岡城跡から志岐城跡を望む。
本丸のようす。 
 本丸サイドの土塁。
本丸奥の櫓台状土塁。 
 本丸の切岸。
二の丸のようす。 
 出丸越しに富岡方面を望む。
出丸下の削平地。 
 志岐八幡宮跡。


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