山崎城(やまざき) | |
別称 : 大岡城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松平信孝 | |
遺構 : 堀、土塁 | |
交通 : 名鉄西尾線南安城駅またはJR東海道本線 西岡崎駅徒歩20分 |
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<沿革> 松平広忠の叔父の合歓木城主松平信孝は、桜井松平信定に岡崎城を逐われた広忠の 復帰を助けたことにより権勢を得、三木松平家や岩津松平家の所領を横領するなど増長 が目立つようになった。やがて松平宗家重臣との間に軋轢を生じ、天文十二年(1543)に 信孝が広忠の名代として今川義元の下へ年賀の使いとして赴いた際に、信孝の妻子らが 岡崎から追放された。これを受けて信孝は尾張の織田信秀と通じ、上野城主酒井忠尚や 上和田城主松平忠倫と図って松平宗家から離反した。山崎城は、このときに信孝によって 築かれた。 天文十七年(1548)三月の第二次小豆坂の戦いで織田勢が今川軍に敗れると、翌四月 に信孝は岡崎城を奪うべく山崎を発った。しかし、耳取縄手の戦いで矢に当たり討ち死に した。近年、第二次小豆坂の戦いにおいて松平広忠は織田方であったとする説が出され いるが、その場合でも信孝が襲った四月までには、今川方に戻っていたことになる。 翌天文十八年(1549)に広忠が没すると、今川氏は岡崎城を接収し、太原雪斎を大将と する1万の軍勢で安祥城に攻め寄せた。城は同年中に陥落し、山崎城もこのときに攻め 落とされたとされる。 その後の山崎城については詳らかでない。天正十三年(1575)の小牧・長久手の戦い に際し、羽柴秀吉に備えて改修されたともいわれるが、確証はない。 <手記> 山崎神明社の境内が城の中心部で、北西角に空堀が残っています。また、境内南端の 鳥居脇にも土塁らしき塚が見られ、これらをつなぎ合わせると、現在の社域が主郭の西 半分ほどにあたるものと思われます。南に突き出た緩やかな舌状台地の中途にあり、 北東の日長神社も城域に含まれるかもしれませんが、さほど要害性が高い地形とはいえ ません。 南西1kmほどのところに安祥城があり、お互いに連携関係にあったことは間違いないで しょう。織田信秀が安祥城を奪った時期については諸説ありますが、この点から少なくとも 天文十二年(1543)以前であることは疑いないと考えます。 他方で、小牧・長久手の戦いで取り立てられたという点については、私は半信半疑です。 おそらく現存の空堀が直線的であるということからの推察と思われますが、規模としては かなり脆弱です。安祥城の出城として手は入れられたかもしれませんが、どれほど戦力と して顧みられたかは、疑わしいと感じました。とはいえ、松平家の内紛期を物語る重要な 遺址として、興味深い城であることには違いありません。 |
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北辺の空堀。 | |
西辺の空堀。 | |
山崎神明社境内。 | |
鳥居脇の土塁跡と思しき塚。 |