上野城(うえの) | |
別称 : 上野上村城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 戸田宗光 | |
遺構 : 土塁か | |
交通 : 愛知環状鉄道三河上郷駅徒歩7分 | |
<沿革> 応仁年間(1467〜68)ごろに、戸田宗光によって築かれたと伝わる。戸田氏は源姓森氏 の後裔で、宗光の父実光(綱光とも)は正親町三条家からの養子とされる。碧海郡上野荘 が三条家の領地であったことから、この地に移り住んだとされる。ただし、戸田氏の出自に ついては確証がなく、三条家出身説を疑問視する向きもある。 ちなみに、上野荘は足利氏庶流上野氏の本貫地でもある。上野氏は足利泰氏の子義弁 が、八条院領上野荘の地頭職を得たことにはじまる。室町幕府が成立すると、上野氏は 幕臣として京に留まった。鎌倉時代の上野氏の居館がどこにあったかは定かでないが、 宗光が上野氏の館跡を取り立てた可能性もあるものと思われる。 宗光は岩津城主松平信光とともに幕府被官として額田郡一揆などで功を挙げ、三河国 渥美郡に所領を与えられた。文明七年(1475)、宗光は上野城を次男家光に任せ、自身 は渥美郡の大津城に移った。 その後、経緯は不明だが明応二年(1493)時点では阿部孫次郎が城主となっている。 孫次郎は金谷城主中条秀章、寺部城主鈴木氏、伊保城主三宅氏、八草城主那須氏ら と連合して、安祥城主松平親忠と井田野で戦ったものの敗北し、松平氏に降った。上野 城には、松平内膳正信定・清定父子が在城したとされる。この名に該当する人物として、 親忠の孫にあたる桜井松平信定・清定父子がある。ただし、信定は明応二年時点では まだ産まれておらず、若いころに桜井城を築いて分家したとみられることから、真偽も 含めいつごろの事跡なのか判然としない。 信定・清定父子は度々宗家に反抗的な態度をとったが、簒奪は成功せずそのたびに 帰順した。その過程で、松平宗家重臣酒井将監忠尚が上野城主となったとみられる。 忠尚は徳川四天王の1人酒井忠次の叔父にあたるともいわれるが、詳しい系譜は定か でない。 天文十二年(1543)、忠尚は山崎城の三木松平信孝や大和田城の松平忠倫とともに 尾張の織田信秀と通じた。同十五年(1546)に松平広忠に上野城を攻められ降伏した が、松平宗家が今川氏に従属すると、忠尚は事実上宗家から半独立した状態にあった とされる。 桶狭間の戦いを経て松平元康(徳川家康)が独立を図ると、忠尚は永禄六年(1563)に 再び松平家に反旗を翻した。ほぼ同時期に三河一向一揆が勃発しているが、近年では 両者は連携していたわけではないとみられている。一向一揆は翌七年(1564)春に終息 したが、忠尚はなおも抵抗を続けた。しかし、同年秋ないし翌八年(1565)には城を捨て、 駿河へ落ち延びたとされる。戦後、上野城は上野七人衆と呼ばれる在番衆による城番制 となった。 その後の上野城については、動静が明らかでない。ちなみに、徳川四天王の1人榊原 康政は天文十七年(1548)に上野城下で生まれたとされる。榊原氏は上野氏と同じ足利 庶流で、矢作川対岸の三河国仁木を本貫とする仁木氏の一族とされる。 <手記> 上野城は、家下川の河岸上に築かれた崖端城です。上郷区民会館の脇に櫓台跡とも 見える土塁状の塚があり、その上に城山稲荷神社が祀られています。神社の西の藪間 公園は堀底のような地形をなしていますが、これらが遺構かどうかはわかりません。 というのも、今昔マップの古地図と照らし合わせてみると、かつての河岸は藪間公園 の西辺と合致し、城山稲荷神社ははっきり川原の低湿地として描かれているからです。 もしそうであるとすれば、上野城の位置は公園の西か南にずれ込むことになると思われ ます。 現地説明板には『諸国古城之図』所収の絵図が掲載されていますが、同書によれば 上野城は台地の北東角として描かれています。また、東側の対岸には神社が描かれて おり、現在の津島神社と思われます。これらの条件に合うのは、城山稲荷の南側という ことになります。すなわち、城山稲荷の土塁が櫓台とするならば、おそらく城の北東端 付近のものということになるでしょう。 |
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城跡説明板と榊原康政生誕之地碑。 | |
城山稲荷神社。 櫓台土塁か。 |
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城山稲荷西側下の藪間公園。 | |
家下側の対岸から城山稲荷方面を望む。 |