勝山城(かつやま)
 別称  : 加知山城
 分類  : 山城
 築城者: 安西氏か
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁
 交通  : JR内房線安房勝山駅徒歩15分


       <沿革>
           安房の大身領主安西氏の居城とされる。安西氏は房総平氏の一族で、千葉氏初代千葉
          常兼の弟・常遠にはじまるとされるが、異説も多い。安房国へは在庁官人として入植したと
          みられており、常遠の孫とされる景益は、治承四年(1180)に源頼朝が上陸した際、一族や
          他の在庁官人を引き連れて伺候した。ただし、頼朝の上陸地点である猟島(現在の竜島)
          は勝山の目と鼻の先にあるが、頼朝が手紙を出して景益が参じるまで数日要していること
          から、景益の本拠は平松城であったとする説も有力である。また一説には、頼朝を援けた
          功により平群郡を任されたといわれるが、確証はない。室町時代までには、安西氏は勝山
          を拠点としていたと推測されているが、勝山城築城の経緯については不明である。
           15世紀末から16世紀初めごろに、安西勝峯・景峯父子は新興勢力の安房里見氏に従属
          したとされる。ただし、里見氏の安房入国から3代義通までの動静は諸説紛々としており、
          定説を見ない。従来は、結城合戦で敗死した里見家基の遺児義実を安西氏が匿い、義実
          は安西氏の将として丸氏や東条氏、山下氏などの安房国人を討ったが、次第に安西氏が
          驕慢となったためにこれを追放したとされている。しかし近年の研究では、義実は古河公方
          の内命を受けて白浜に上陸し、安西氏を含む安房国人を打倒ないし従属させていったもの
          と考えられている。
           『日本城郭大系』によれば、『毛利家文書抄』の「関東八州城之覚」に「安房かち山 正木
          右衛門大夫安芸守居城」とあるとされる。正木氏は里見氏の重臣であり、安西氏から城主
          が代わったとも、正木氏が新たに城を築いたともとれるが、詳細は不明である。


       <手記>
           勝山城は勝山漁港南側の山上にあった城です。北側には大国山があり、山頂には櫓風
          の展望台が見えているので、こちらも城跡のように思えてなりませんが、遺構らしきものは
          見当たらないようです。
           北麓の山際に現役の井戸があり、その脇の「八幡山遊歩道」と書かれた標識に従えば、
          城山へ登れます。途中の尾根筋などにも何か遺構がありそうなのですが、全体的に藪化が
          酷く、メインルート以外はほとんど歩けません。
           しばらく登ると、八幡神社下のやや広い曲輪に出ます。これより上は立て籠もるには狭い
          空間しかないので、ここが中心的な役割を担う曲輪だったものと思われます。さらに上がる
          と八幡神社の社殿がありますが、境内は狭く、付随的な腰曲輪であったのでしょう。
           山頂もまた狭小で、ド藪のため全体像は分かりませんが、あちこちに露岩が見られあまり
          手を加えられている様子がありません。部分的に土塁のような地形も見受けられましたが、
          おそらく守備のためではなく、烽火などを上げる際の風除けではないかと思われます。
           先人の縄張り図などを拝見すると、三方に伸びる尾根筋にも遺構があるようなのですが、
          藪林のうえに地質が脆く急崖なので、これ以上は断念しました。

           
 登城口脇の井戸。
八幡神社下の中心的な曲輪。 
 同曲輪から南西尾根へ向かうも、
 ド藪と急崖で断念^^;
八幡神社社殿。 
 社殿前のようす。腰曲輪跡か。
山頂のようす。 
 同上。
山頂部の土塁状地形。風除けか。 
 城山からの眺望。
城山から大黒山を望む。 


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