白浜城(しらはま)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 里見義実か
 遺構  : 土塁、削平地、堀跡
 交通  : JR内房線館山駅からバスに乗り、
      「野島埼灯台口」下車徒歩15分


       <沿革>
           房総の戦国大名里見氏最初期の居城とされる。ただし、安房里見氏の来歴には不明な
          点が多い。初代とされる里見義実は、一般には嘉吉元年(1441)に結城合戦で戦死した
          里見家基の子とされ、安房国の安西氏を頼って白浜に拠り、同国内の山下氏や東条氏、
          丸氏を滅ぼし(この経緯にも諸説あり)、ついには驕り高ぶって悪政を布いた安西氏をも
          妥当するに至ったといわれる。しかし、伝承通りであれば家基と義実の生年はかなり近く
          なり、また幕府に対する謀叛人である家基の子を、安西氏があえて匿う理由がないなど
          疑問も呈されている。
           近年では、享徳三年(1455)にはじまる享徳の乱に際し、幕府方の関東管領上杉氏と
          対立する鎌倉公方(古河公方)足利成氏の配下として、義実は上総国へ渡った舅の武田
          信長とともに、安房国で上杉方の国人の切り崩しを任されたとする有力説が提唱されて
          いる。安房里見氏の一次史料上の初出は、今のところ義実の孫とされる里見義通である。
          そのため、義実およびその子成義については非実在説も根強い。
           いずれにせよ、白浜城は安房に入国した里見氏によって居城として築かれ、義実・成義・
          義通3代のうちいずれかのころに、館山平野へ進出したとみられる。遅くとも16世紀はじめ
          ごろには、義通が稲村城を居城としていた。白浜城は隠居城として存続したともいわれる
          が、稲村移城後の扱いについては定かでない。


       <手記>
           白浜城は、南に房総半島最南端の野島埼を見下ろす屏風状の山上に築かれた城です。
          直接の関係はありませんが、北西麓には明治初期に僅かな期間だけ営まれた長尾陣屋
          がありました。
           城山へは、東の切り通し南麓か、西の切り通しの南麓と北の大きく3か所から登れるよう
          です。私は長尾陣屋跡を訪ねた後で、西の切り通し北側から入りましたが、このルートが
          最も高低差なく楽に行けると思われます。
           切り通しは東西ともとても深く切り立っていて、一見すると岩盤堀切に思えますが、規模
          が大きいため、少なくとも義通までの期間と里見氏の地力で作れたかどうかは疑問です。
          両切り通し間には遊歩道が整備されていて、山頂の主郭まで迷うことないハイキング道と
          なっています。
           西側から登ると、まもなく腰曲輪群が現れ、城山第二展望台と呼ばれる平場に至ります。
          第一展望台はすなわち山頂の主郭ですが、私が訪れたときには草木が延びていてあまり
          眺めがよくなく、城内で一番眺望が利くのがこの第二展望台でした。
           展望台から主郭までの間の尾根筋は土塁線となっていて、北側に1段下がっていくつか
          曲輪が展開しています。城としては珍しいつくりですが、城山の海側が断崖に近い急斜面
          であることを鑑みると、これは防御のためというより海風を防ぐ目的があったのではないか
          と考えられます。一方、山頂の主郭はあまり広くなく、物見台程度の利用にとどまっていた
          のではないでしょうか。また、土塁線には2か所ほど堀跡のような溝状地形が見られます。
          とはいえ防御の用に立つとは思えず、用途は定かでありません。
           主郭から東方へ向かうと、やや下った先に浅間と呼ばれる小ピークがあり、浅間神社と
          みられる小さな石祠が祀られています。ここも曲輪だと思いますが、周囲にはほかに曲輪
          や堀のような造作はみられません。さらに進むと、まもなく東の切り通しに辿り着きます。
           白浜は、今でこそ首都圏に近いリゾートとして栄えていますが、当時は生産性も高いとは
          いえず、岩場だらけで港としても使えません。さらに半島の南端僻地ということから、館山
          平野へ進出できてしまえば、はっきり言って城を維持しても仕方のないように思われます。
          里見氏が白浜の次に居城としたのは千田城ともいわれますが、とにかく北への進出拠点
          を築いた時点で、長居は無用とばかりに移っていったのではないでしょうか。
           それにしても、こんな半島の先っちょからスタートして、最盛期には下総にまで勢力圏を
          広げたというのは、かなり稀有な例ではないでしょうか。私の見た限り、類例は島原半島
          南端の日野江城からスタートして、松浦の波多氏まで影響下に置いた有馬氏ぐらいでは
          ないかと思います。里見氏の由来には不明点が多くみられますが、里見義堯に至るまで
          優秀な当主が続いたのだろうと推察されます。

           
 野島埼灯台から白浜城跡を望む。
長尾陣屋跡から白浜城跡を望む。 
 長尾陣屋側からの登山口。
西側の切り通し。 
 同切り通しを南麓側から。
腰曲輪跡。 
 腰曲輪群。
同上。 
 第二展望台からの眺望。
第二展望台脇の土塁。 
 尾根筋の土塁線。
土塁線北側の曲輪跡。 
 土塁線の堀切状の溝地形。
同上。 
 主郭の土塁。
同上。 
 主郭から東側尾根筋を見下ろす。
浅間と呼ばれる曲輪跡。 
 同曲輪の石祠。浅間神社か。
東側の切り通し。 


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