三谷城(みたに)
 別称  : 手倉城
 分類  : 山城
 築城者: 塩田政幸か
 遺構  : 曲輪、堀跡か
 交通  : JR徳島線穴吹駅徒歩30分


       <沿革>
           岩倉城主三好康俊の家老・塩田左馬助政幸の居城とされる。政幸は鎌倉幕府の執権・北条
          時政11世の孫で、一閑斎を称し80貫を領したと伝わる。その姓から、時政の曽孫・北条義政に
          始まる塩田城主・信濃塩田氏の後裔とも類推されるが、確証はない。
           天正十年(1582)、土佐の長宗我部元親が岩倉城・脇城を攻め落とすと、政幸は嫡男の時幸
          と共に防戦したが、三谷城もまもなく落城した。これにより廃城となったと推測されるが、詳しい
          経緯や塩田氏のその後については定かでない。


       <手記>
           三谷城は吉野川南岸の山塊の麓近くに突き出た、舌状の小峰を利用した城です。南と西は
          「ドンド谷」と呼ばれる三谷川の切り立った谷戸となっていて、吉野川の対岸正面には脇・岩倉
          両城が望めます。
           城跡までの道は、上掲の地図から察せられる通りたいへん細く小回りの利く車でないと大変
          ですが、城跡の前は草が刈られていて駐車に十分なスペースが用意されていました。その脇
          には立派な石碑が建っていたのですが、白い布が巻かれていて、碑文の凹みを指でなぞって
          みると、「三谷城址」と書かれているようでした。裏には設立者などが記されており、どうも私が
          訪れたちょうど数日後に除幕される予定だったようです。
           城内はかつては畑地だったようですが、今は荒れた更地で廃棄物が散乱する残念な状況と
          なっています。付け根側に横一文字の段差地形があり、あるいは背後の堀切の跡かもしれま
          せん。『日本城郭大系』には、付近に池や「城戸」の転訛とみられる「きとう庵」があったとあり
          ますが、いずれも失われたようです。また、同書には西の丸や三の丸らしい平地がみられると
          され、電線鉄塔が建つ先端側が1段低い平場となっており、西の丸(二の丸?)に相当するもの
          と拝察されます。その他の部分に関しては、灌木で荒れていた耕地になっていたりで、どこまで
          が城域かは定かでありません。

           
 北麓から三谷城跡を望む(中央の鉄塔付近)。
城址碑。この数日後に除幕だったようです。 
 付け根側の段差地形。
 堀切跡か。
城内のようす。 
 先端側1段下の平場。
 西の丸(二の丸?)跡か。
北側斜面のようす。切岸跡か。 
 三谷城跡からの眺望。 
 画面中央に脇城跡。中央左手が岩倉城跡。 


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