<沿革>
塩田城のある一帯は塩田平と呼ばれ、古くから文化の栄えた地域で、独鈷山など三方を高い山々に囲ま
れていることから信州の鎌倉とも言われている。城は、独鈷山の北麓弘法山の裾野に鎌倉北条氏一族で
信濃守護職にあった北条義政が、建治三年(1277)に居館を構えたことにはじまる。義政は塩田氏を称し、
その後国時・俊時と続いたが、塩田氏は鎌倉幕府とともに滅び、塩田城も廃城となった。
しかし、戦国時代になって村上氏が勢力を伸ばすと、塩田城は塩田平統治の中心地として再び注目され、
村上氏の重臣福沢氏が入った。天文二十二年(1553)年、村上義清は武田信玄の攻勢に耐えきれなくなり
越後の上杉謙信を頼って落ち延びた。義清は、上杉氏の支援で一度は旧領に復するものの、信玄によって
再び信州を逐われた。この時義清は塩田城を拠点としていたとされる。
信玄は塩田城に飯富虎昌などの重臣を配し、上田平や佐久平に対する拠点とした。天正十年(1582)に
武田氏が滅亡すると、上田平は真田昌幸の支配下となった。昌幸は新たに上田城を築き、塩田城は廃城と
された。
<手記>
塩田平は別所温泉で知られ、真田の隠れ里ともよばれる上田の奥座敷ですが、塩田城の存在はあまり
知られてはいないようです。その歴史的価値に比して、整備がほとんどされていないのが残念です。
塩田城は、弘法山とその支脈が両袖のように囲う裾野に階段状に築かれています。まさに段々畑のよう
に曲輪が続いているため、鎌倉時代の政庁として主に機能していたことがよくわかる城跡です。途中発掘
調査現場がありましたが、あまり進捗しているようにはみえませんでした。
また、山頂に進むにしたがって戦国期の遺構が広がるようでしたが、全く整備されていないため雑草の
生い茂る夏山となっており、結局山頂までの登頂は断念しました。
上田市といえば上田城の復元整備計画による観光資源化が進んでいますが、こちらが一段落したところ
で、今度は塩田城や砥石城の整備をお願いしたいところです。
余談ですが、このとき近くにある戦没画学生美術館「無言館」に行った際に立ち寄ったのですが、無言館
は他に無い形で戦争を語ってくれる貴重な資料館ですので是非一度見学されると良いと思います。
|